信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第60回「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」 2018. 7.19説教
年間第15木曜日 第一朗読:イザヤ260.7-9、12、16-19 福音朗読:マタイ11・28-30 朗読 そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 説教 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 とイエスは言われました。イエスの周りには多くの人が集まってきた。病気の人、障害を持っている人、貧しい人々、そして、疲れた人、重荷を負っている人がイエスのもとに来たと思います。福音朗読のその後で出てくる言葉で「軛」という言葉がありますが、今のわたしたちの生活では、軛というのは目にすることはほとんどない、牛や馬の首に渡す横木で、2頭の牛や馬を使って、運搬させるとか耕作をさせるとか、そういうようにしていたようです。 どこか書いてあったのですけれども、ナザレのイエスは父ヨセフを引き継いで大工の仕事をし、この軛、その牛や馬の首につけるピタッと体にあった軛を作る名人だったという伝説があるそうですが、この軛、モーセを通して、イスラエルの人々に与えられたいろいろな掟と適応の解釈を守ることが非常に難しく感じていた人々がいましたが、その掟のことだと思われる。特に、ファリサイ人や律法学者たちから罪人として蔑まれ、退けられていた人たち、遊女とか取税人とかいう人たちがいたと思います。そういう人たちに向かって、イエスはこのように言われたと思います。「休ませてあげよう」というときに、肉体的な休みという問題もないわけではないだろうが、精神的な安らぎ、安心を与えるという意味が強く込められていたと思います。イエスの周りには罪びとがたくさん集まり、救いを求めていました。イエスはその人々に会って、罪の赦しという最大の恵みを宣言したのであります。 今日の福音はイエスご自身の言葉を伝えているわけです。わたしたちはイエスによって建てられた教会です。よく教会の掲示板に書かれている聖句の中に、この言葉が見られます。ということは、その教会は、このイエスの言葉を引き継いで、自分自身も自分たちも、イエスのように重荷を負う人、疲れた人の安らぎになりたいと願い、そして、そうすることができると思っていることを表している。日本のカトリック教会も「平和福音宣教推進全国会議」を開いて、教会が開かれた教会、苦しむ人、疲れた人、悩む人の憩い、安らぎ、希望となる共同体となるように努めますので、神様、どうか助けてください、という祈りを捧げたのでありました。 わたしたちの周りにいる苦しみ悩んでいる人々、その人々に、イエスは安らぎを与えると宣言されましたが、同時に、新たに、その人にとっての軛を与えているのかもしれない。しかし、その軛は、イエスが一緒に担ってくださる軛であり、課題であると思います。わたしたち一人ひとり、自分の軛を与えられていますので、イエスが一緒に担ってくださる、イエスが与えてくださる聖霊の助けによって、喜んでその軛を担うことができると信じ、そのために今日も祈りを捧げましょう。 |
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