カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第57回「故郷でのイエスと使徒パウロのとげ」  2018. 7.8説教


鹿沼教会年間第14主日説教

第一朗読 エゼキエル2・2-5
第二朗読 二コリント12・7b-10
福音朗読 マルコ6・1-6

第二朗読
 (皆さん、わたしが)思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

福音朗読
 (そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

説教
今日は年間第十四主日であります。今お聞きになられたように、福音はマルコによる福音の6章から取られています。今日の福音、そしてさらに2つの朗読を聞いて、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。今日の福音の言葉から、特に心に留まる、特に気になる言葉があるとすれば、それは何であるかと言いますと、わたくしにとっては次の言葉ですね。
 「人々の不信仰に驚かれた。」
イエスは自分の故郷では、他のところで行われたような目覚ましいしるし、奇跡を行うことができなかった。それはなぜであろうか。人々の不信仰に関係があると思われます。人々はこのイエスをよく知っていた。子どもの時から一緒に暮らし、一緒に遊び、一緒に学んだことでしょう。ナザレというところです。イエスはナザレのイエスと呼ばれています。イエスの母はマリア様。お父様はヨセフ様。そして多くの兄弟姉妹、親戚がいて、もしかしたら一緒に暮らしていたのかもしれない。12歳の時に、イエスがエルサレムの神殿を訪問した時に、両親に断りなしに行方不明、迷子になってしまったという事件が、ルカの福音書で告げられていますが、そのことを除くと何ら特別なことがなかったようでありまして、ごく普通にイエスは成長した。そして大人になってから、大工の仕事をしていたようです。お父様は大工であったので、そのままお父様から仕事を引き継いだのだろうと思われる。大工といっても日本語の大工は家を建てる人ですけれども、何でもする、何でも屋さんのような存在で、家具とか、あるいは農具でしょうか、畑を耕す道具とか、その他色々な道具を作ったり、修理したり、あるいは家の修理をするとか、何でもしなければならない、そういう仕事であったと言われております。
 何も特別なことはなかった。ところが、いつでしょうか、お父様がこの世を去る、そしておそらく兄弟姉妹を養い、育てるという責任が、長男だったイエスにあったからでしょうか、30歳くらいまでは普通に静かに過ごされていたのですが、ある時神様の呼びかけを感じたからでしょう、家を出て、全国を巡り歩いて、神の国の福音をのべ伝え、病んでいる人、心身の不自由な人を癒し、そして苦しんでいる人、貧しい人々を慰め、励ますという仕事を始められたのでありました。故郷のナザレの人にとっては、そういうイエスは理解しにくかったのであります。
 他の箇所では、そしてあの男は気が変になっていると言われたので、イエスの身内の人がやってきて、イエスを取り押さえようとしたと出ております。周りの人には、おかしくなってしまった男というようにも見えたらしい。そういう背景がありますので、イエスが故郷のナザレの会堂で教えても、人々は聞く耳がなかった。
一般的に、わたしたちは、人を理解するときに、ある枠組みを作っています。その枠組みに合わせて、理解しようとしますね。この人はどんな人ですかということを考える時に、すでに前もって、ある枠を持っているわけです。ナザレの人にとっての枠は、マリアの息子、兄弟姉妹と一緒に暮らしているあの一人の男という枠であって、神様の呼びかけに応えて、わけの分からないようなことする人という枠は、彼らの中にはなかった。イエスの言動が大きく枠から外れてしまったので、気が触れてしまったのではないかというように考えたのではないだろうかと。信仰というのは、考えようによっては優しいけれども、考えようによっては難しいですね。ナザレの人にとって、イエスを信じるというのは難しかった。
 一週間前の日曜日の福音を思い出してください。十二年間出血が止まらない女性の話でありました。その女性は、なんとかイエスに触って癒してもらおうと、なんとかしていただけるだろうと強く望み、そして信じて、イエスの着ていた服に、密かに、こっそりと触ったところ、イエスから力が伝わって、その瞬間、その女性の病気は治ったという話でしたね。その女性に向かって、イエスが言われたのは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して、行きなさい。」こちらは、イエスによって信仰が褒められたというケースです。
 ナザレの人々の場合は、子どもの時から知っているという枠組みがあるので、神様から遣わされ、貧しい人のために命を献げる救い主イエスという枠がなかなか当てはめることができなかったのである、と思われます。もっとも、マリアの息子で名前が出ていますが、兄弟姉妹という言葉はカトリック教会では、マリア様はイエスを生んだあと、生涯処女であったと信じております。ヘブライ語、アラム語では、従兄弟などの親類にあたる人たちを兄弟姉妹という言葉で表していると、そのように理解しています。
ところで、兄弟ののなかのヤコブという人ですが、後にエルサレムの教会の指導者になりました。聖書には「主の兄弟ヤコブ」として登場しています。
 あと一つだけ、お話したい。第二朗読であります。このパウロという人のことです。彼には、何かつらいことがあった。それを「とげ」と呼んでいます。何か、病気かあるいは障害か。色々想像されていますが、分からない。パウロは主に願った。三度も願った。どうか、このとげを私から取り去ってください。しかし、叶えられなかった。そして、そのときの主の言葉は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力の弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」でありました。あのパウロ、ものすごく頑強な人であったに違いないですね。ああいうような、困難な仕事を終わりまでやり遂げた。肉体的・精神的に頑強な人であったと思いますが、彼には大きな悩み、大きな痛みがあった。それを「サタンから送られた使い」とも言われています。そして、そのサタンの使いによって、自分の使命の遂行から逸らされてしまうように、もうこんなつらい難しいことはもう止めてしまいたいと思うように仕向けられたのかもしれない。でも彼は踏みとどまったわけですね。
 わたしたちは、そんなに頑強じゃないし、パウロのとげのような問題はないかもしれないが、でも誰にでもつらいこと、あまり人に言っても理解してもらえないような色々なことがある。神様にお願いしても、なかなか取り除いてもらえない、どうしてだろうと思うことがありはしないだろうか。そういう時に、神様はどのようにお考えなんだろうか。神の力は、人間の弱さの中に働くと、パウロはわたしたちに教えています。この言葉の意味を、自分にとってはどういうような意味として、受け取ることができるだろうか。パウロの信仰、それは自分の弱さを通して、働かれる神の偉大な力への信仰であったと思います。



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