信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
一覧表に戻る |
■ 第55回「罪のゆるしと癒しについて」 2018. 7. 5説教
年間第13木曜日 第一朗読 アモス 7・10-17 福音朗読 マタイ 9:1-8 福音 (並行箇所 マルコ2・1-12、ルカ5・17-26) (そのとき、)イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。 説教 今日の福音は、中風の人の話です。 イエスは中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。これは不思議な気がします。病気の人に「あなたの病気を治してあげよう」と言うのなら話が分かるのですが、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。罪と病気は別なことではないでしょうか。それとも病気の原因は罪にあるので、まず罪の赦しを与える、と言われたのでしょうか。罪と病気はどんな関係にあるのでしょうか。病気は、罪の結果であり罰でありましょうか。 ヨハネ福音の生まれつきの盲人の癒しの話を思い出します。 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9・1-3) イエスは明確に、罪と病気の因果関係を否定しています。それでは病気はどこから入ってきたのでしょうか。神の創造の作品の傑作である人間は、本来、極めてよいとされた存在です。(創世記1・31参照)しかし、創世記は、神と人とのつながりの破れを語ります(創世記3章)。いわゆる原罪の結果生じた宇宙の秩序の乱れが、人間に及んでいる状態が病気であると考えられます。福音書のイエスの言動から見るに、病気とは悪の勢力、悪霊の支配下に置かれている人間の状態であり、病気はその個人の罪の結果ではなく、人類全体の《構造悪》のなせる業であります。病気からの解放は悪からの解放であり、聖霊の支配による「神の国の到来」の状態であります。 イエスは、悪を追放し罪の赦しをもたらすために、人間としてこの世に来られたのでした。イエスの宣言、「子よ、あなたの罪は赦される」は、人を罪と悪から解放するという宣言です。このイエスの宣言は律法学者には冒涜の行為と映りました。罪のゆるしは神のみに属する特権であると考えられたからです。イエスのこの宣言は、自分自身を神に等しい者とするという意味に受け取られました。実際イエスは冒涜罪によって処刑されることになったのです。 イエスにとって大事なのは病気からの癒しだけでなく、人々の罪と悪からの解放でした。彼にとって、罪のゆるしの宣言と、実際に中風の人を癒すのと、どちらが易しいでしょうか。罪のゆるしは目には見えません。癒しが起こったかどうかは衆人環視の中で結果は明白、癒す自信がなければ決してそのようには言わなかったでしょう。仮にイエスが中風の人の癒しに失敗したとすれば、その結果は惨めであり、散々な目に合わされたに違いありません。 イエスの使命と人々の癒し。この関係をしみじみ考えてみたいものです。神の国の到来、それは「癒しと悪霊の追放」によって示されたのです。では、現在に於ける「癒しと悪霊の追放」とは何でしょうか。祈りながら考えましょう。 |
一覧表に戻る |