信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第52回「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 2018. 6.30説教
2018年6月30日(土)浦和教会 18時半 第一朗読 知恵の書 1:13-15、2:23-24 福音朗読 マルコによる福音書 5:21-43 第一朗読 神が死を造られたわけではなく、 命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。 生かすためにこそ神は万物をお造りになった。 世にある造られた物は価値がある。 滅びをもたらす毒はその中になく、 陰府がこの世を支配することもない。 義は不滅である。 神は人間を不滅な者として創造し、 御自分の本性の似姿として造られた。 悪魔のねたみによって死がこの世に入り、 悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。 福音 (そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。 説教 今読みましたマルコによる福音は二つの癒しの話を伝えています。会堂長の娘、12歳であったとありますが、の癒しと、出血症の女性、12年間も出血が止まらない女性の癒しの話であります。二つの癒しの話があるのですが、今回はこの出血症の女性の癒しの方に注意を向けたいと思います。 この女性はこの病気のために本当に苦しみ、あらゆる可能性を試したようです。お金も使い果たし、そしてもうできることは何でもしたが、一向効き目がなかった。それどころか悪くなる一方であった。最後の望み、それはナザレのイエスという人のことを聞いて、この人ならば自分のこの難病を直してもらえるのではないかと思ったのであります。出血症というのは非常に忌み嫌われていた病気のようでして、その人に触れると触れた人の方が穢れるというように考えられていたそうであります。この群衆の中で、イエスに近づいて、イエスに触れるというのは大変な勇気がいることだったと思われるのですが、もう必死で、それしかないので、やっとイエスの来ていた衣服に触れることができた。その時のことが詳しく述べられていますが、 「女は自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した。」 これはどういう状況なのでしょうか、とにかく女性は、人には知られたくないし、人から普段嫌われ、排斥されている状態にあったと思われます。その女性に対してイエスが言われた言葉が 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 この言葉はどんなにかこの女性を癒し、励まし、そして安心させたことでしょうか。 わたしたちはミサに与り、必ず福音の朗読を聞きます。福音はイエス・キリストがどんな人であるのかということをわたしたちに告げ知らせています。イエスの生涯のいろいろな場面を聞きながら、イエスが行ったこと、イエスが言われたことを味わいながら、イエスをもっと善く知ろうとわたしたちはつとめるのであります。イエスがなさったことで非常に目立つことは病人や障害がある人を癒されたということであります。あるいは死んだ人をよみがえらせたという話もあります。 そこでわたしたちが思うことは今日の第一朗読にでていることと関係があると思います。どうして人間には死ということ、あるいは病気ということがあるのだろうか。神が造られた世界は善い世界であり、何も悪いものはなかったはずである。それなのにどうして死がこの世界に入ってきたのであろうか。知恵の書がそのことを告げています。神が造られた世界は善かった。非常に善かったと創世記が告げている。ではその神の造られた世界にどうして悪、病気、あるいは罪が存在しているのでしょうか。この問題は多くの人を悩ませてきた。今日の知恵の書によるとそれは悪魔のせいだと悪魔のせいと言われても、どういう風に皆さんお思いですかね。 「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」 創世記の3章がアダムとイヴが蛇に誘惑されて、神様の言いつけに背いた次第を語っています。この蛇が悪魔であると普通言われている。どうして彼らは悪魔の誘惑にのってしまったのかというと神様に対する信頼の念が揺らいでしまった。神への信仰が破れてしまったからであると思われます。この創世記の3章の話はまた別の機会にゆっくり学ぶといたしまして、神様への信仰の問題ではないかと考えられます。 イエスは出血症の女に対しては、「あなたの信仰があなたを救った」と言われますね。他の箇所でも「あなたの信仰があなたを救った。こんな信仰はユダヤ人の中でも見たことがない」とも言われました。信仰、わたしたちはイエス・キリストを救い主として信じています。しかし、この世界に存在する様々な問題、困難の中で、信仰が揺らぐことがないでしょうか。どうして神様がお造りになった世界にこのようなわけのわからない、不条理なことが起こるのだろうか、神様は果たしているのだろうかとさえ思ってしまうこともあるかもしれない。わたしたちがミサに与り、そしてイエス・キリストがどんな人であったのかということを更に良く知り、そして信仰を深めるようにと努めております。イエスが誰であるかということは二千年の教会の歴史の中で、いろいろな議論がありました。ミサの時は信仰告白、信条を唱えます。今日は特別にお願いして長い方の信条、ニケア・コンスタンチノープル信条をご一緒に唱えたいと思います。この信条は、イエスキリストは誰であるかという論争の結果、教会の、古い教会の、4世紀の教会のたどり着いた共通の信仰の理解であります。わたしたちもイエス・キリストが今もわたしたちと共にいてくださる、聖霊を送ってくださる、わたしたちを導き、助けてくださるという信仰を深めることができますよう祈りましょう。それではニケア・コンスタンチノープル信条をご一緒に、唱えましょう。 「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、 天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。 わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。 主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。 すべては主によって造られました。 主は、わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり、 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。 ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、 苦しみを受け、葬られ、 聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。 主は、生者と死者をさばくために、栄光のうちに再び来られます。 その国は終わることがありません。 わたしは信じます。 主であり、いのちの与え主である聖霊を。 聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、 また預言者をとおして語られました。 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、 死者の復活と来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。」 |
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