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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第50回「神はすべての人を愛おしんでおられる。」  2018. 6.27説教


2018年司牧者大会派遣ミサ
2018年6月27日(水)

第一朗読:一テモテ2・1-8
福音朗読:ヨハネ17・11b、17‐23

福音
わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。


説教
 2018年の司牧者大会を終了する、この派遣のミサにおきまして、さらに一言申し上げたいと思います。イエスは弟子たちに、いわば告別の、別れの言葉を残しました。皆が一つになるように、イエスが天の父と一つであるように、弟子たちもイエス・キリストにおいて一つとなるようにと。そのために、彼は自らを、自らの全てを天の御父に捧げ、そして弟子たちに聖霊を送って、わたしたちが一つであることができるようにと計らって下さいました。わたしたちの間には、それぞれ違いがある。違いがないと区別できなくて困ってしまいますけれども、当然、それぞれの人は違う。違うけれども、一つである。どうしてそういうことができるのだろうか。お互いに違いを認め、尊重しながら、しかし、イエス・キリストという人において一つになる、という、このわたしたちの目標、理想に向かって、わたしたちは歩んでおります。

テモテへの手紙の有名な言葉ですが、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」。真理とは、イエス・キリスト御自身であり、イエス・キリストの生涯の生き方を指していると思います。

 随分前のことですが、わたくし東京教区からケルン教区を公式に訪問しました。ケルン教区と友好教区になっており、大変お世話になってきたわけでありますので、使節団を形成して訪問しまして、何回か色んな機会にお話ししました。その時に聞いた人が驚いた内容がある。それは日本では毎年3万人以上の人が自殺していますということでした。ちょっと耳を疑って、一桁違うんじゃないんですかと言われましたが、いや3万人。その後、いつからですかね、3万人という数字は切りました。多くの方の努力もあり、人数は減りましたが、しかし、基本的には同じ状態が続いている。特に、若い人の自死者は減っていない。そして、同じ話題を韓国の司教様たちにしたら、韓国でも若い人が自殺しているし、若い女性の自殺が増えているという、大変驚くべき事実を聞かされた。若いのにどうして死ななければならないのか。今の日本だけではないですけれども、特に日本の社会にある、なんかこう、社会の根のところにある、根底的な問題。その問題にぶつかって、若い人ははっきりと何が問題か分析したり、考察したりする余裕もなく、ともかくもう生きていく力が削がれてしまうのかもしれない。

 もう一つの現象は、行方不明者が多いということです。いなくなっちゃう。どこに行ったのか、わからない。それも若い人に。それは3万人以上だと最近知ったんですけれども、毎年3万人以上の青年が行方不明になる。親、家族が知らないという。どうしてなんだろうかと。そんなに生きづらい社会なんだろうかと。ある人の意見では、その人たちは自分の場所がないと感じている。自分のいる場所が見つからない。自分がいていいのかどうか、分からない。自分がいることが、周りの人にとってどういう意味を持つかということを実感できないと。いない方がいいのか、いたら良くないのかなど思うのか。これは想像ですけれども。

いることの意味があります。新共同訳では、旧約の続編ですけれども、わたくしが大変好む言葉が出てきます。神様は全ての存在を慈しんでいる。存在するものを全ていとおしく思っている。決してお嫌いにならない。人間は神様の言いつけを守らない、「はい」と言いながら、まったく実行しない。それでも神は人間を愛し、慈しんでいる。神様は全てのものをお造りになった。人間をお造りになった。そして、一人ひとりの人を大切に思っている、という意味の言葉が知恵の書に出てきます。知恵の書というのは、旧約聖書の終わりの頃、最初からギリシャ語で書かれたものだそうですが、イエス・キリストの到来が間近になっている頃の成立だそうです。あなたの存在はわたしにとって大事なんだと言っている。腹も立ったり、期待に反してしまったり、間違ったりしてるということがあるけれども、あなたの存在はわたしには大事なのだ、あなたがいることがわたしの喜びなんだと言っています。あなたとの関係がなくなったら、わたしは本当に生きている意味がすごく難しくなるんだよということを、毎日お互いに確認できている人は、自分で命を縮めたり、その人から離れてしまうということはありえないんですけれども、何か、その人が日々生きるための意欲を削ぐ現実があるんでしょうね。

 わたしは高度経済成長期の時に成長しました。だいたい、高校、大学生の頃。その後にバブル経済というのがあって、それが破綻した。その後を生きているわけなんですけれども、本当に、日本の社会で人々は、どういう気持ちを持って生きているのか。電車に乗ると、みんな下を向いて、スマホをしています。ある時数えたら、座っている人の中で一人だけ、スマホをしていない人が。・・・あなたが大切なんですよ。あなたと喧嘩しても、あなたがいないとわたしは生きる張り合いがないと、喧嘩してでも、あるいは罵り合ってでも、あなたが大事なんですという関係。それは今の若い人の間にあるんだろうかと。みんな大人しいですね。

 わたしたちの宣教は、難しい言葉で、自分でもよくわからないことを言葉で言っても、生きる意味について、そういう深刻な悩みを持っている人には響かない。わたし、ここに出席する直前に、最近届いた「福音宣教」誌を急いで開けたら、本間神父様の記事がありましてですね、是非皆さんお読みになってください。本当にわたしたちは、自分が本当に心でしっかり受け止めて、そして信じて、行っている、あるいは行おうとしていることを、人に説いているだろうか。あるいは実行しているだろうか、実行できていないとしても、実行しようとしているだろうかと。パドバの聖アントニオのことも、確か初日に言いましたが、「言葉でなくて、行いで宣教しなさい」と。本当に多くの人が迷い、悩み、そして生きがいを喪失しつつある日本の社会で、イエス・キリストの光を掲げることができますよう、そのために、わたしたち自身がキリストからの光をいつも受けているキリスト者でなければならないと思うのでございます。



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