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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第47回「からし種のような小さな存在でも大きく成長する」  2018. 6.17説教


年間第11主日
カトリック藤岡教会

第一朗読:エゼキエル17.22-24
第二朗読:二コリント5.6-10
福音朗読:マルコ4.26-34

朗読
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

説教
藤岡の教会のミサにお集まりの皆さん、今日は年間第11主日でございます。今読まれました福音は主イエスによるたとえ話であります。イエスは神の国の福音をたとえ話で説明されました。今日のたとえ話をご一緒に味わってみたいと思います。

このからし種のたとえ話ですが、からし種というのは見たことありますかね。非常に小さな種だそうです。しかし、土に蒔くと芽を出してどんな野菜よりも大きくなる。更にその前の箇所では、やはり、この土に種を蒔く話であります。種を土に蒔くと芽を出して、そして大きな木でしょうか野菜でしょうか、豊かな実を結ぶようになる。
この二つの話から、わたしたちは何を学ぶことができるのでしょうか。わたしの心に残ることはまずこの非常に小さな種、ほんとにこう小さくともいつの間にか成長して大きな野菜、あるいは大きな木、答唱詩編では、レバノンの杉、なつめやしという言葉がでてきます、それぞれ、高さが30メートルになる。エゼキエルの預言でもレバノンの杉という言葉がでてくる。見たことないですけどね。立派である、大きい、栄えるというイメージがわたしたちに伝わってくる。はじまりは、目に見えない小さなものでも、やがて大きくなる、栄える、立派になる、神の国はそういうものだよとイエスが言われています。
そして、木はひとりでに実を結ばせるとありますね。土に蒔かれるわけですね。そうするとその土には種を芽生えさせ、成長させるための栄養がある、そういう力があるという意味だと思う。だいたいわたしたちも畑を耕して、そこに種を蒔いたり、苗を植えたりして、作物の収穫を喜んでいるわけであります。その土に作物を成長させる実を実らせる栄養、可能性、力があるわけですね。この土というのは、でも、何を表している、何を意味しているのでしょうか。イエスが言われた土というのは、わたしたち人間のこと、あるいは人間の心のことではないだろうか。
アレルヤ唱では、種は神のことば、蒔く人はキリストだとこう言っていますね。わたしたちの心に神の言葉が蒔かれる、そして、いつの間にか、その種は芽を出し成長して、豊かな実りをもたらすのだとそう言っていると思います。わたしたちは、神の言葉を聞いているわけですね。そして、今、どういうような実りをもたらしているのでしょうか。今のこの世界を見ると、まだまだわたしたちキリスト者は、特に日本では、小さな小さな存在なんですよね。それほど人の目にたつような成果をもたらしていないのではないか。しかし、見る人が見れば、そこに立派な実りがあると言えるのかもしれない。そもそも、神の言葉を聞いて、それを守っている人はどのような実りを人々にもたらしているのだろうか。わたしたち教会は、その点、この社会に、周りの人に、どういうような実りをもたらしているのだろうかとこの機会に考えてしまう。

今日の福音で心に留まるというか、むしろひっかかるのは、「ひとりでに実を結ばせる」という言葉です。このひとりでに、というのはどういう意味なんでしょうか。種を蒔いた人は種を蒔いたら何もしないで、でも気が付いたら、芽を出し大きくなっていく、という意味なんだろうか。わたしたちの心に蒔かれた神の言葉はわたしたちの中でひとりでに成長しているのだろうか。蒔かれた土はそうかもしれないが、でも、その土がちゃんと栄養がある土であるとか畑であれば手入れをしないといけないわけでありますね。ほっとけば枯れてしまったり、雑草に覆われてしまったりするわけで、イエス様のいろいろなたとえ話、種まきのたとえ話というのもありますよね。そこで、わたしたちの心に蒔かれた神の言葉を今度わたしたちは良く味わい、そして自分の生活の中で実行しなければならない、わたしたちの側の協力、神の言葉を良く聞き、味わい、そして行うという、わたしたちの方からの働きが求められていると思うのです。聞いてもちゃんと受け止めないと何の成果も得られない。ミサの中で、毎回告げられる神の言葉、イエスの言葉、それはわたしたちの心に蒔かれます。わたしたちがいろいろな他のこと、心の患い、その他いろいろな自分の思いを一旦停止して、ストップさせて、神様がわたしたちに語っておられることは何であるかということを良く味わい、そして、自分の場合は、今日から、今から、どう生きることが神様の言葉に応えることであるかということを、せめてミサの間、よくよく考え、そして、そうできますようにと祈るようにしたいと思います。



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