カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第48回「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」  2018. 6.20説教


年間第11水曜日
カトリック浦和教会

第一朗読:列王記下2.1、6-14
福音朗読:マタイ6.1-6、16-18


朗読
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」


説教
年間第11主日の福音はからし種のたとえでありました。神の国はからし種を蒔くようなものであるというお話しであります。神様のみこころが行われている時、そこに神の国が実現しているのであります。昨日の福音は山上の垂訓の5章で、敵を愛しなさいというお話しでありました。今日は同じ山上の垂訓の6章から取られています。この山上の垂訓の教えを読みますと、わたしたち人間の本性というのでしょうか、傾向というのでしょうか、わたしたちにとって決して易しくはない教えであります。例えば、自分に挨拶してくれた人に挨拶したところで、それが何になるか、それは誰でもしている。挨拶してくれない人に挨拶するとそこに神の国があるのだと言っておられる。

今日の福音も良いことをする時に、人に見てもらおうとして行ってはいけない。わたしたちは良いことをしたい、良いことをしていますが、そのことを他の人にわかってもらい、そして認めてもらい、できれば評価してもらいたい、そういう気持ちがある。そこまではよいかもしれないが、わざわざ人に分かるように、人から認めてもらえるようにする時に、人のためにしているよりも、自分自身のために、自分が良く思われるために、自分が認められるためにしていることになります。良い行いの代表は施し、祈り、断食であります。施しをするときには、偽善者がしているように、褒められようとして、みんなに分かるようなやり方でしてはいけませんという話です。

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」
これはどういう意味でしょうか。自分の右の手と左の手の関係を言っているのでしょうが、もしかしたら、自分自身ですら、良いことをしている、何々のために、誰かのために良いことをしている、というように意識してするのではなくて、いわば自然に、自分から、それと思わずに行うことが神の国の到来の印であるという意味かもしれない。祈りもこれとわかるように、これ見よがしに祈るのではなくて、隠れたところで見ておられる神様に、隠れたところで祈りなさい。断食についても、わたしは断食しているのですよということを世にこれ見よがしにしてはいけません、という教えであります。

わたしたちは、ことさら、人に見せびらかすようなことはしていないと思いますが、しかし、人から理解してもらいたい、評価してもらいたいという気持ちは持っていると思う。そして、自分の行い、良いことをしていると自分で思い、そして実行する時に、自分が思うような、期待するような反応がないと、どういう気持ちになるのか、それを振り返ってみると、このイエスの教えは本当に厳しくわたしたちの心に迫ってくるのではないだろうか。



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