信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第43回「神の心の葛藤―-痛みと慈しみ」 2018. 6.8.説教
聖心の祭日 カトリック浦和教会 第一朗読:ホセア11.1、3-4、8c-9 第二朗読:エフェソ3.8-12、14-19 福音朗読 ヨハネによる福音書 19:31-37 福音 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 説教 キリストの聖体の祭日(主日)を祝ったわたしたちは、その後の金曜日、本日6月8日、イエスのみ心の祭日を迎えました。み心、聖心と書きます。聖心とは、イエスの心臓をあらわしています。十字架の上で兵士の槍を受けて、血と水を流されたイエスの十字架上の犠牲から聖霊が人々の上に降り、そして教会の秘跡が生まれたとわたしたちは理解しております。17世紀以降、聖心の信心というのは、非常に盛んになりました。 マルグリット・マリー・アラコックという修道女にイエスが現れて、人々の忘恩、不敬、冒涜、冷淡、無関心をお嘆きになったということが、この信心を広める一つのきっかけとなったようであります。それは1675年のことだったそうです。心臓というのは、人間にとって、肉体的だけでなく、精神的にも非常に重要な場所で、人間の心の状態をあらわしております。マルグリット・マリー・アラコックに現れたイエスは、人々の忘恩などを嘆いて、そして聖体の祭日を制定し、ご聖体に対する人々の冒涜の罪を償うようにというお望みを伝えたと言われています。これは、私的な啓示、わたくしの啓示であって、公的なものではありませんが、教会はいろいろな人の熱心な訴えに応えて、「聖心の祭日」を決められたのでありました。 イエスの聖心はイエスによって表された神の愛を表しています。この神の愛は人間の愛に通う非常に人間的な愛を表しております。ギリシャ人の考えた神は、どんなことにも影響されない、不動の、動かない、自分は動かないで、すべてを動かしているものが神だ、動かされるならばそれは神ではないと考えたそうですが、聖書に現れる神はわたしたちと同じような心を持っており、時には怒り、時には悲しみ、時には嘆く神様であります。旧約聖書に現れた神はイスラエルの人々に対して激しく怒る神でありました。人々はそう思った。自分たちが神の戒めを破った、神との約束を守らなかったので、神は嫉む神として、自分たちに対する激しい怒りを表されたと考えた。と同時に、神はイスラエルの民を限りなく慈しむ神であるという理解も広まってまいりました。ホセアの預言がそのことを知らせています。 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。」 あたかもこの神様は、わたしたち人間のように、心の中の葛藤を抱えているようであります。怒る心と憐れむ心と両方の気持ちがせめぎ合っている。どうなるかっていうと、結局、神は怒るよりも、憐みと慈しみの方が勝る結果になります。そういう神の姿を預言者は伝えています。 そして、神の憐れみ、慈しみの頂点が愛する御子イエス・キリストの十字架となって現れました。それは、本当に、神は激しい痛みを覚える、そのような愛でありました。 日本の有名な神学者で北森嘉蔵という人がいます。その方の著わした有名な著書が『神の痛みの神学』であります。神が痛みを覚えたり、悲しんだりということはギリシャ人の考える神では考えられない。神にはありえない。神は完全な人で、悲しんだり、怒ったりするというのは、足りない点とか、満たされないことがあるからそうなるので、神はいつも満たされておりますので、怒ったり、悲しんだりするはずないと考えるわけですが、聖書の神はそうじゃないですね。わたしたちのために、怒ったり、悲しんだりする、心に強い、激しい痛みを覚える、そういう神様であるということをわたしたちに告げております。この聖心の信心は、そのような聖書の神理解を更に具体化したものであると言えましょう。一時、大変多くの人に受け入れられ、聖心という名前を付けた修道会や学校などが多数造られたのであります。 今日の第二朗読でエフェソ書が言っておりますように、わたしたちはキリストによって示された神の愛がどのようなものなのか、神の愛、あるいはキリストの愛がどんなに広く、どんなに長く、どんなに高く、どんなに深いものであるかということを少しでも悟らせていただけますようにお祈りいたしましょう。 |
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