信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第45回「行いが語る時、言葉は生きたものとなります。」聖アントニオの言葉 2018. 6.13説教
カトリック 浦和教会 第一朗読:列王記上18.20-39 福音朗読:マタイ5.17-19 福音 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 説教 パドバの聖アントニオはその優れた説教によって大きな影響を与えました。そのアントニオの残した説教の中で、彼は次のように言っています。 「行いが語る時、言葉は生きたものとなります。言葉を控え、行いに語らせなさい。」 どういうことであるかと言いますと、言葉があっても、その言葉が行いとなって実現しない場合に、その言葉は力を失ってしまう。説くこととその内容を実践することが一致しなければならないという意味であります。 そこで、この前の日曜日の主イエスの言葉を思い起こします。 「私の家族とは誰のことですか、神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 神の御心、それは律法、そして、預言者という旧約聖書の言葉によって示されました。 ですから、今日、イエスが言われていますように、 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではない。廃止するためではなく、完成するためである。」 と明言しています。完成するということはどういう意味でしょうか。ご承知のように、イエスは当時のユダヤの指導者であるファリサイ派の人々、律法学者、そして祭司たちと対立しました。その対立のきっかけになったことは、イエスが安息日に癒しを行ったという出来事であります。形式的に、機械的に、数知れない多くの律法を遵守するように教えることが大切であるということではなく、その律法によって示されている神の御心を良く知り、そして、その御心を行うことこそ、律法を完成することになるんだと言っておられるのではないでしょうか? イエスは死に向かう最後の夜、弟子たちと食事を共にし、新しい契約の血となる、今行っているミサ聖祭を制定し、そして、新しい掟をわたしたちに残されました。それは愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛しあいなさい」という掟であります。愛すると言う言葉は非常に意味があいまいかもしれませんが、イエスが生きたように、イエスが人とかかわったように、キリストの弟子はすべての人に心を開き、すべての人のために働き、すべての人を大切にしなさい、そういう掟であると思います。それを実行することは並大抵のことではないと思います。そうしなければならないが、そうできていない自分を知り、そして日々、赦しを願いながら、少しでも聖霊の導きに従って、新約の教えを実行できますよう、今日のお祈りを献げたいと思います。 |
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