信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第44回「わたしたち教会はいつも新しくされなければならない」 2018. 6.10説教
―玉川通り宣教協力体合同堅信式 年間第10主日 カトリック渋谷教会 第一朗読: 創世記3・9-15 第二朗読: Uコリント4・13-5・1 福音朗読: マルコ3・20-35 福音 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」 説教 年間第10主日を迎え、今日、玉川通り宣教協力体合同堅信式が行われます。 ただいま読まれました、マルコによる福音から、わたくしが、心に強く感じました点を、いくつか申し上げたいと思います。 第一点. わたしたちが救い主として信じているナザレのイエスという人は、どのような人であったでしょうか。イエス・キリストを知り、イエス・キリストのように生きることが、わたしたちキリスト教信者の、第一に心掛けるべき点です。 昨日でしたでしょうか、12歳のイエスが、エルサレム巡礼のときに行方不明になったという話を聞きましたが、イエスは、その後、平穏な日々を過ごして、おおよそ30歳になったときに、神の国を宣べ伝え始めました。しかし、そのイエスの言葉と行いは、必ずしも、周りの人にとって、理解できるものではなかったようです。実際、今日の福音によると、身内の人たちは、イエスのこの言動を理解していなかったことが分かります。「あの男は気が変になっている」と言われ、また、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言われていました。 頭が変だと思われ、イエスの家族も、かなり、そのように思っていたらしい。この事実は、わたしたちに、大変興味深い、考えるべき点を提供してくれていると思います。イエスの言動は、決して常識的ではなかった。むしろ、当時の人々の標準通念から外れており、そして、さらに、当時の社会の支配者たちにとっては、反抗的な、不従順な態度であると思われました。 第二の点ですが、どのような罪も赦される。しかし、『聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』とイエスは言われた。これは、どのような意味なのでしょうか。 わたしたちは、聖霊降臨祭を祝いました。三位一体の日、キリストの聖体の日、2つとも、非常に大切な祭日です。そして、この前の金曜日は、主イエス・キリストのみ心の祭日でした。神は、いつくしみ深い方であるということを、わたしたちは、日々学びます。そして、聖霊を受けて、わたしたちは神の子とされ、罪の赦しを受け、そして、神の子にふさわしい者にされると信じています。 そういえば、ゆるしの秘跡のときに、司祭が唱える赦しの言葉の中に、「神が聖霊の働きを通して、あなたに赦しと平和を与えてくださいますように」とあります。司祭は、みなさんと同じように罪人ですから、赦すのは司祭ではありません。聖霊の働きを通して赦しが与えられます。聖霊を受けて、わたしたちは罪の赦しを受けます。 『聖霊を冒涜する』ということは、恐らく、聖霊の赦し、聖霊の恵みを拒むこと、自分が赦されなければならない罪人であるということを認めないこと、そして、赦しを受けなければならない罪人であるということを認めず、聖霊を受けて、神の子に戻るということが必要であるという意識を持っていない人であると思います。何しろ、赦しが必要であるのに、自分が赦しを必要としていると思わないのですから、どうにも赦し自体を拒んでいるということになりますので、聖霊による赦しが与えられないという意味ではないかと思います。 三つ目ですが、『イエスの周りに母と兄弟たちが来た』。父は出てきません。父は聖ヨセフで、養い親ですが、既に地上を去っていたようです。このときのイエスの言葉は、通常のわたしたちの受け止め方によると、木で鼻をくくったと申しますか、そのような言い方はないという感じがしないこともないです。 わたしの母、わたしの兄弟とは誰か。そばに来ているのに、聞いているのに、聞こえよがしに、「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。神とは、父である神です。父である神を信じ、神のみ心を求め、神のみ心を一緒に行う人こそ、母であり、兄弟、姉妹である。 わたしたち教会は、そのような人々の集まりです。聖霊降臨によって出発しました。聖霊の導きを受け、罪の赦しを受け、決意を新たに、「主イエス・キリストに従い、イエス・キリストの霊である聖霊に従って生きます」と約束しました。今日、堅信を受けるみなさんには、洗礼のときの約束を更新するとともに、さらに、聖霊の7つの賜物を受けて、「キリスト者の使命である、福音宣教の務めを、熱心に、忠実に、しっかりと果たします」という約束をしていただきます。 さて、みなさんも洗礼を受けられたときのことを思い起こしてください。 清々しく、心が晴れやかで、新しく生まれ変わって、これからしっかりとやっていこうという、そのような気持ちであったと思います。堅信のときも、そのような気持ちを、さらに強くしていただいたと思います。 教会も同じで、教会の誕生のとき、そこには、生き生きとした聖霊の働きがあった。教会には、組織という面があって、組織というものは、何年も経つと、硬直化し、柔軟ではなくなり、いろいろな規則があり、そして、発足のときの気持ち、聖霊の導きに従って生きるということが、だんだんと弱くなる、疎かになっていく、そのような傾向があります。教会の組織、教皇庁、教区、修道会、様々な団体。発足のときは、実に明るく元気です。人間も同じであるかもしれません。洗礼を受けたとき、司祭に叙階されたとき、誓願を立てたとき、司教に叙階されたとき、晴れやかに、聖霊に満たされて、しっかりとやっていこうと、みなも勇気と熱意を受ける。しかし、何年も経つと、だんだんと気が枯れてしまうようになる。 教会、わたしたちは、いつも新しくされなければならない。刷新されなければならない。自分の問題をしっかりと見つめ、それを取り除き、そして、主イエスが望んでいるようなあり方に、常に立ち戻るようにしなければならない。天の父のみ心が何であるかを、いつも、しっかりと聞き、見つめなければならないと思います。 堅信を受けられるみなさんは、今日、聖霊降臨の体験と同じ体験をします。聖霊が、みなさんに望んでいるのは何であるかということを、いま一度、よく祈り、求め、日々実行するようにしてください。 |
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