信仰講座 ARCHBISHOP COUSE
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■ 第41回「預言者を受け入れないイスラエルの歴史」 2018. 6. 4説教
東京教区アレルヤ会総会ミサ説教 東京カテドラル地下聖堂 第一朗読:二ペトロ1.2-7 福音朗読:マルコ12.1-12 福音 (そのとき、イエスは、たとえで祭司長、律法学者、長老たちに)話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。 『家を建てる者の捨てた石、 これが隅の親石となった。 これは、主がなさったことで、 わたしたちの目には不思議に見える。』」 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 説教 マルコによる福音の12章のぶどう園のたとえ話を今聞きました。ぶどう園にはぶどう園の持ち主から、ぶどう園に働く農夫たちのところへ何度も僕が送られ、そして、収穫を受け取ろうとしましたが、すべて無駄になり、最後にぶどう園の主人は愛する一人息子をぶどう園に送りました。農夫たちは、この最後に送られた息子をなぶり殺しにしてしまったという話であります。 この話が自分たち、祭司長、律法学者、長老たちでしょうか、への当てつけであるということを彼らは悟った。悟ったが、イエスの言葉を受け入れ、信じようとはしなかったのであります。イエスは、ご自分が、祭司長、律法学者、長老たちによって異邦人の手に渡され、そして十字架につけられることを既に覚悟していました。そして、その時が近づいてくると、弟子たちと最後の食事をし、ご自身の生涯、ご自身の教えを記念するこのパンとぶどう酒、ご聖体という秘跡をお残しになりました。 昨日はキリストの聖体の祭日でありました。聖体というと、このパンの形をした御体をまず連想しますが、ぶどう酒の形をとった御血もご聖体でありまして、イエスはこのぶどう酒の入った杯を取って、「これはあなたがたのために流されるわたしの血である。新しい契約の血である」と言われたのであります。契約の血とは、我々にはいささかなじみにくい言葉でありますが、イスラエルの人々は牛や羊などを飼う牧畜民族であって、牛とか羊、やぎなどは彼らにとって非常に大切な財産であったわけですね。その動物を屠って、神様に献げて、その血を契約の締結の時に流すということは、イスラエルの人々にとって、よく理解できる儀式であったようです。わたしたちにはちょっとわかりにくい。 昨日の第一朗読を思い出していただきますと、モーセが仲介者になって祭壇を築いて、この動物の血を祭壇の上とそれから人々の上に半分ずつ振りかけたというように出ているわけであります。契約の血、契約を締結する時に動物の血を流すことによって、その真剣さ、真実さを表すということでありましょうか。その時、イスラエルの民はモーセを通して、神様のお示しになった戒め、掟、規則をしっかり守りますと約束しましたが、結果的にそれはできなかった。そこで、神は何度も預言者を遣わして、今日のたとえで言えば僕たちを遣わして、何度も戒め、教え、そして導いていたが、人々は言うことを聞かなかったという歴史があったわけであります。そこで最後に、神のひとり子イエス・キリストが送られてきた。イエスの言うことも彼らは聞き入れないどころか、かえって反発し、反感をもち、憎むようになって、排除しようとし、ついに、当時イスラエル、ユダヤを支配していたローマの支配者の手によって、ピラトのもとで処刑されるということになりました。その時にイエスが十字架の上で流された血を、この血を、初代教会は新しい契約の血であると理解したのであります。 イエスを救い主として信じる者に永遠の命が与えられます。この神様の約束は、イエス・キリストの流して下さった御血によって明らかに示されました。わたしたちはごミサの時に、司祭の口を通して、新しい契約の血という言葉を聞いているのであります。そして、司祭の聖別の言葉のあと、会衆は答えます。 「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」 あるいは昨日のミサの答唱詩編の答唱の言葉も非常に大切であると思います。 「このパンを食べ、この杯を飲み、わたしは主の死を告げ知らせる」 そこでわたしたちはごミサにあずかり、ご聖体をいただくたびに、主がわたしたちのために命をささげてくださったこと、その尊い御血を流して下さったことを思い、そして、そのような強い深い神の愛に心を馳せ、そして、その神様のしてくださったことを多くの人々に述べ伝え、告げ知らせるようにとわたしたちは呼びかけられているのであります。 教会の使命、それはイエス・キリストを救い主として信じるということだけでなく、その信仰を多くの人にあらわし、伝えるということであり、そのためには、このご聖体を通して示された神の愛、イエス・キリストの愛をより深く知り、そして、わたしたちもキリストのようになる、いわば「キリスト化する」のであります。今日のペテロの手紙の表現によれば、神の本性にあずかる者とならせていただくことが必要であります。罪人であり、もろい人間であるわたしたちが、イエス・キリストの十字架の血によって、その贖いを受けて、いわば神の子となり、神の本性にあずかる者とされていることを心から感謝し、その感謝を、日々の生活の中で周りの人々に伝えることができますよう、今日のごミサでお祈りをいたしましょう。 |
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