カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第40回「キリストの聖体」  2018. 6. 3説教


カトリック飯能教会

第一朗読 出エジプト記 24・3-8
第二朗読 ヘブライ人への手紙 9・11-15
福音朗読 マルコによる福音書 14・12-16、22-26


第一朗読
 (その日、モーセは山から)戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

第二朗読
 (皆さん、)キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

福音
 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


説教
皆さん、今日は「キリストの聖体」の祭日です。ご聖体と言いますと、「パンの形をしたご聖体」の方をまず思いますが、「ぶどう酒の形を取っているおん血のご聖体」ということを、先ず今日改めて思い起こしたいと思います。
マルコの福音でイエスは言われました。「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコ14・24) この言葉を今日はしみじみと味わってみたいと思います。
ご承知のようにミサが献げられる度に司祭は唱えます。
「皆、これを受けて飲みなさい、これはわたしの血の杯、あなた方と多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」
わたしたちはミサの度にこの言葉を唱え、そして聞いております。最初に聞いたときは少し驚いたかもしれません。わたしが千葉県の教会で働いておりました時に、結婚している娘さんのところに来られたご婦人が、信者の娘さんに誘われたからでしょうか、初めてミサに参加しました。今日、ミサは全部日本語で献げられておりますので、意味は通じるわけであります。そしてこの場面、「これはわたしの血の杯である」「新しい永遠の契約の血である」と司祭がゆっくり、はっきりと唱えましたので、「その言葉が非常に強く、心に残りました」と後から聞きました。わたしたちカトリック信者はもうすっかり慣れているので、それほど驚いたりはしないのですけれど、「血」という言葉はわたしたち、穏やかなことを好む文化の中で生きている人々にとっては、この「血」という言葉は普段は儀式などのなかなではあまり使わないように思います。どういう時に使っているでしょうか?この辺が日本における宣教福音化のための課題ではないかなと、昔から思っております。
「契約の血」という言葉は決して日常的ではありません。もっとも「契約」といえば、わたしたちの生活は契約でなりたっています。全部契約ですね。昔からそうではなかったのですが今は全部契約で成り立っているそういう生活にされて、されてしまっているような気がします。しかし「契約の血」とは日常的ではない。
しかしこの「契約の血」という言葉は聖書の歴史の中では非常に大切です、聖書の歴史がいろいろな国に伝えられて、「契約の血」という言葉も伝えられてきました。
わたしたちには違和感がる、この言葉を、そこだけ省くわけには行きません。それを除くとキリスト教ではなくなってしまうので大切に保存し、しかも中心になる言葉としてミサの時は必ず司祭が唱える大切な言葉です。日本でもっと多くの人に信者になってもらうには、この事情を分かっていただく必要があると思います。
「どうしてあなた方はしょっちゅう〈血、血、血〉と縁起でもないことを言うのですか」と思っている人がいるのかもしれません。「契約の血」というのは長い聖書の歴史の中で非常に大切な言葉です。
第一朗読「出エジプト記」ではモーセの指導の下で動物の血が流され、その動物の血を祭壇の上と人々の上に半分ずつ振りかけた、と書いてあります。その光景を想像すると、えらい恐ろしい、ほんとに文字通り「血生臭い」場面です。
神様と人々は契約を結んだ、この契約ということが聖書の民にとっては重要であり、もちろん人々の生活の中で契約という考え方がしっかりと根を下ろしている、その際、出エジプト記にあるように、人々は約束をしました、「神様の仰せになることは全部守ります、神の掟、神の言葉、神の定め、神のおっしゃることをきちんと守り行います」と約束したわけです。ここに契約が成立した、これが旧約、旧い契約であります。しかし人々はこの約束を守ることが出来なかったわけで、そこで神様は憐れみ深くお考えになって「新しい契約」を行ってやり直しをして下さった、というようにキリスト教は考えるわけです。ここにキリスト教の成立の理由、根拠があるわけです。
新しい契約をする時もやはり「血」が必要でした。でももう動物の血は使わない、ではどうしたかというと、イエス・キリスト、神の御子の血を神様に献げることによって成立した契約です。
イエス・キリストは十字架にお架かりになって血を流して下さった。わたしたちはその血によって救いを与えられています、罪の贖いの血です。そのようにわたしたちは信じています。
イエスが十字架の上で亡くなって下さった、それは単にイエスが止むを得ずしぶしぶ殺されたのではなくて、イエスがご自分から命を献げて下さった、と聖書は強調しております。多くの人のために流されるわたしの血、この「ため」という言葉ですが、先ずわたしたちが思うことは「多くの人の救いのため」です、わたしたちの贖い、救い、解放のためにイエスは命を献げて下さったのです。………命を捨てるほど大きな献げものはない、大きな愛はない、人は誰でも死にますが、命を、あることのために献げるというのは人間に出来る最大の美しい行為です。止むを得ず人によって殺されるという場合と、自分から命を捨てる場合では、同じ命を失うにしても、天と地の違い程の大きな違いがあります。イエスはわたしたちのために死んで下さったのです。
「ため」にはおそらくもう一つの意味が含まれています。わたしたちが原因で、わたしたちが理由になって、わたしたちが神さまから授かった掟を守ることが出来ないので、罪を犯しているので、その罪が理由でイエスご自身は罪を犯されなかったけれど他のすべての人の罪が原因で、その罪を取り除くために死んでくださった、命を献げて下さったのであるとわたしたちは信じています。
この信仰をもう一度、今日改めて深く思いましょう。そしてその信仰をわたしたち全員、他の人に現わし伝えていかなければなりません。
「このパンを食べ、この杯を飲み、わたしは主の死を告げ知らせる。」
今日の答唱の言葉です。わたしたちはすべて司祭だけでなくすべての人がイエス・キリストを述べ伝えるように召されております。どういうようにしてこの使命を実行するのか、よく考えそして自分に出来るこの「宣べ伝える」というこの使命を実行するようにいたしましょう。そのための恵みを願いましょう。




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