カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第4回「祈るイエス」  2018. 2. 3 説教


第一朗読:ヨブ7.1-4、6-7
第二朗読:1コリント9.16-19,22-23

福音朗読:マルコ1.29-39
すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

説教:祈るイエス
 わたしたちの信じている主イエス・キリストとはどんな人でしょうか。何をなさった方でしょうか。わたしたちはミサの度に福音の朗読を聞き、更に第一朗読、第二朗読含めて、聖書を学びながら、イエスキリストをより良く知るようにと努めております。
間もなく四旬節に入りますが、今日、年間第五主日はイエスがシモンの姑をお癒しになったという話を伝えており、更にイエスは、多くの病人を癒し、また多くの悪霊を追い出したと伝えております。

 イエスが何をしたのかと問われると、まずわたしたちの心に浮かんでくるイエスの行われた事柄は、神の国の福音を述べ伝えられたということと共に、多くの病人を癒し、体の不自由な人を癒し、そして悪霊を追放されたということであります。
 
 イエスの福音は神の国の福音と呼ばれています。神の国というのは神様が支配される国、神の力がいきわたっている所、神のみ心が行われている状態が神の国であります。わたしたちも日ごとの祈り、その中で最も大切な祈りと思われる祈りは言うまでもなく主の祈りであります。

 み心が行われますように。この地上に神の国が実現しますように、神様のお望みがこの地上でそして更にこのわたしを通して実現しますようにと祈っているのであります。そして、神の国が来ていることは既にイエスの到来によって示されました。イエスは神の国の福音を述べ伝えるとともに、病人を癒し、悪霊を追放された。この病人の癒しということと悪霊の追放ということが神の国が来ていることを人々に現し、伝える印となっていました。

 先週も悪霊の追放のことを取り上げたわけですけれども、悪霊というのは今日のわたしたちにはわかりにくいかもしれませんが、悪の力、悪の存在を現していると思います。この世界に悪という現実があることをわたしたちは否定できないのであります。わたしたち自身の中にも神のみ心に適わない罪がありますが、この世界自体が、まだまだ神様のみ心の実現からはかなり遠い状態にあると言わなければならないと思います。平和を実現する人は幸いであるとイエスは山上の垂訓で言われました。わたしたちは平和のために働く者として召されています。人と人との間の平和、国と国との間の平和、更に、もしかしてこの環境、自然との平和も更に考えていかなければならない。あるべき状態の実現のために、わたしたちは与えられているお恵みを使わなければならないのであります。

 今日の第一朗読はヨブ記でありました。ヨブ記というのはヨブという正しい人が何のいわれもなく苦しみに出会うという話です。ヨブは自分が神様から罰を受けるに値する当然の罪を犯しているならば仕方がないが、自分でよくよく反省してもそれが自分にはない、わからない。どうして、このようなつらい苦しい目に合わなければならないのか、ということを神に訴えている。そういう話がヨブ記という長い物語となっているのであります。
ヨブの訴えは特別なものであるかもしれないけれども、この地上には不条理な苦しみというのがあるわけでありまして、どうしてこのような目に合わなければならないのか自分にはわからない、そういう思いを抱く人が決して少ないわけではない。イエスは不条理な悪の満ちているこの世界に来られ、人間としてその悪と戦い、そして人々の苦しみを自分の苦しみとされたのであります。

 第二朗読は使徒パウロのコリント書であります。パウロは、イエス・キリストの福音のために、命を捧げた人でありますが、今日の箇所では次のように言っている。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。」

 自分から出て行って、その人のそばに行き、その人と一緒に生き、一緒に生きながら、神の国の福音、イエス・キリストの救いを述べ伝えたのであります。その生き方はイエス・キリストの生き方に倣うものだったと思います。
ところで、今日のマルコによる福音の中で、わたくしの心に強く記されるイエスの言動があります。

 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

 イエスは人々の現実の真っ只中に入って、人々と一緒に苦しみを共にされ、苦しむ人の病気を癒し、悪を取り除くということをなさったが、他方、天の父との深い交わりの中におりました。1人になって、現実のいろいろな問題から離れて、静かに天の父との親しい時間を過ごしておられた。このイエスの生き方こそ、わたしたちが特に見習うべき点ではないかと思います。

 わたしたちの毎日の生活も、いろいろな課題、問題から成り立っているかと思いますが、その中で、時間と場所をとって祈りのひと時を過ごさなければならないと思うのであります。今、実は、そのような時をわたしたちはすごしているわけでありますが、できれば毎日、少しの時間でもとって、いろいろな問題から自分の心を天の御父のほうに向ける、そして一緒に歩んでくださる復活されたイエス・キリストに心をあげるという努力をするようにいたしましょう。


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