カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第37回「聖霊降臨とは」  2018. 5.20説教


聖霊降臨の主日
カトリック本郷教会

第一朗読 使徒言行録2・1-11
福音 ヨハネ15・26-27、16・12-15

福音
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

説教
 今日は、聖霊降臨の主日でございます。復活祭からちょうど50日目に当たる今日、弟子たちの上に、マリア様といっしょにお祈りしている弟子たちの上に、聖霊がくだり、人々は大きな喜びと勇気を与えられ、ここに、わたしたちの教会が誕生したのでありました。
そこに集まっていた人々は、当時知られていた世界、西からも東からも、いろいろな所から集まっていた人々でありますが、「彼らは、自分の生まれ故郷の言葉で話を理解することができた」と伝えています。ここに、教会の普遍性、文化や言語や地域などの違いを超えて、すべての人を聖霊によってひとつに結ばれる神の民の姿が、はっきりと示されております。

 聖霊を受けて、ペトロをはじめとする弟子たちは信仰を新たにし、生前、主イエスが教えてくださったことの意味を悟って、人々にはっきりと自信をもって主イエス・キリストの生涯、特に、その死と復活の出来事を宣言し、そして、人々に洗礼を受けるようにと勧めました。教会の福音宣教の働きが、この日から始められました。

 教会の使命、それは、福音宣教をするということ、あるいは別な言葉で言いますと、福音化 − 人々とこの世界を主イエスの福音にかなった人、かなった世界に変えるように努力する働き− であると言えます。

 すべての人は、宣教と福音化をする使命を受けている、と言われています。ここにおられる皆さまも、それぞれ、自分の場所、自分の立場で、自分の言葉で、自分にできる福音宣教をしていただきたい、と思っております。

 さて、通常、わたしたちは、主イエス・キリストがどのような方であったかということを深く思い、福音書を読み、黙想をいたします。そして、わたしたちの祈りは、天の御父に献げられます。その際、聖霊の交わりのなかでお祈りを献げるという言葉が、末尾に付け加えられているのであります。

 聖霊降臨の後の教会の主要な働き手は、わたしたちを通して働かれる聖霊であります。聖霊は、もちろん、父と子の霊でありまして、父と子から切り離して、まったく別な方として考えることはできないのでありますが、わたしたちは聖霊の働きの時代を歩んでいる、と言わなければならない。わたしたちの生活は、聖霊に従う生活であります。
使徒パウロは、「皆さん、霊の導きに従って歩みなさい」と言っています。霊の導き ‒「霊」と言いますのは、言うまでもなく「聖霊」であります ‒、聖霊の導き、聖霊の働きを受け、聖霊の促しに従って、日々の生活を神様にお献げする、そうすることが、イエス・キリストのように生きることと一致するのであります。

 聖霊によって、聖霊に従って、日々の生活を献げますと、聖霊のもたらす実りが与えられるのであります。それは何でしょうか。筆頭に挙げられている言葉は、「愛」という言葉であります。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」− このような実りを、わたしたちは、聖霊の働きによって受けることができるのでございます。
もっとも、聖霊は、自動的に機械的に働くわけではなく、わたしたちの心が聖霊の働きに対して開かれていなければならない、聖霊の教えに従順でなければならない、敏感でなければならないのであります。他のいろいろな思いにとらわれていると、聖霊の言っていることが耳に入らない、心に届かないのであります。

 どういうときに聖霊が働かないのでしょうか。
この筆頭に挙げられている「聖霊の結ぶ実」というのは「愛」でありますが、「愛」というのは曖昧な言葉ですけれども、同じ使徒パウロは、コリントの教会への手紙、第一の手紙の13章で、有名な「愛の賛歌」を述べています。「愛とはこういうことです」と言っておりますが、その中でわたしの心に強く響く言葉は、「愛は、自分の利益を求めない」と言っております。

 「利益」と言うとおおげさかもしれませんが、わたしたちの毎日の思いと考えはどういうものであるかというと、わたしたちと言うと失礼になりますが、わたしなど、自分の必要、自分の思い、それでいっぱいで、その合間に、聖書の教えとか、自分の任務とか、例えば、今日で言いますと、「今日は、どんなお話をしたら皆さんのためになるかな」と、そういうことを思いますが、もっぱら、いろいろな雑多な自分の都合、自分の利益、自分の満足に関することが多い。

 パウロは、そういう心の動きを「肉の業」と呼んでいます。「肉」というのは、「肉体」という意味ではありません。人間の肉体は神から創られた良いもの、神聖なものがありますが、その人間が自分勝手な思いにふけり、かつ、自分の満足を求めて行う、思うさまざまなことは、聖霊の導きに反している、「肉の業」であります。

 ガラテアの教会への手紙のなかに、「肉の業」が列挙されている。たくさん出ておりますが、このなかで、自分の思い、自分の欲望に関するものが目立ちます。人間関係のなかで生ずる、神様の御心に合わないことが、多数挙げられています。「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ・・・」。ああ、もう結構です、と言いたくなるぐらい、次々と述べられているのですけれども、だいたい、どこか自分に当てはまるような気がいたします。

 今日は、聖霊降臨の日。
主イエスは、弟子たちに「聖霊を送る」と言われました。聖霊は、真理の霊、そして、弁護者と呼ばれています。
わたしたちは、本当に、この信頼に値する主イエス・キリストの教えと生き方に従って歩まなければならない。

 「霊的生活」とよく言いますが、その霊的生活というのは、聖霊の導きに従う生活 − 完全に従うことはできませんので、従おうと努力する生活を、「霊的生活」と言います。
聖人は、霊的生活を立派に成し遂げた方であります。

 その霊的生活の中心にあるのは、祈り、そして、わたしたち共同体の祈り、個人の祈りと共同体の祈り。共同体の祈りの中心は、このミサ聖祭であります。
聖霊の導きに心を開き、聖霊の照らしを受け、そして、肉のわざを退け、霊の実りを豊かにいただくことができますよう、今年の聖霊降臨、2018年の聖霊降臨、5月20日、ごいっしょに心を込めてお祈り致しましょう。




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