カトリックさいたま教区
ホーム・Home初めての方へ・Welecomeお問い合わせ・Contactサイトマップ・Sitemapご利用について・Conditions of Useリンク・Links文字サイズ・Text sizeQRコード
カトリックさいたま教区

信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

一覧表に戻る

■ 第33回「愛する」  2018. 5.6説教


復活節第6主日説教


朗読
第二朗読  一  ヨハネの手紙  4:7-10
 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

福音朗読  ヨハネによる福音書 15:9-17
 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

説教
今日は、復活節第六主日という日です。
今読んだ「ヨハネによる福音」でイエスは言われました。
「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。」《互いに愛し合いなさい》というご命令は、「新しい掟」と言われており、イエスが、最後の晩餐、つまり、十字架につけられる直前に、最後に弟子たちと行った夕食の時に弟子たちに残した遺言でありました。
この「愛する」という言葉は誰でも知っていますが、「愛する」とはどういうことかということは、場合によって分かりにくいし、あいまいであるし、そして、実行することが難しいとも思います。
キリスト教が日本に伝えられた時、日本に来た福音宣教者フランシスコ・ザビエルたちは、日本という、遠く離れた、異なる言語、異なる文化、習慣の中に生きている人々に、キリスト教の教え、特に「愛」ということをどういうような言葉に置き換えたらよいかということで大変苦労したそうであります。この「愛」という言葉は、当時あまり良い意味をもっていなかったのです。非常に誤解される恐れがあると彼らは思いました。そこで、苦労のすえ、「大切」、御をつけまして「御大切」という言葉にしたそうであります。
キリスト教は、短い期間に多くの人に受け入れられましたが、間もなく禁止され、多くの信者は殉教しました。
それから長い年月が過ぎ、明治時代になって信教の自由が認められ、キリスト教が解禁されて、キリスト教の宣教が再開されましたが、その時は「愛」という言葉が採用されたようであります。
「愛」という言葉は、どうしてキリスタンの時代には退けられたかというと、仏教では「愛欲」の「愛」というように使われていて、つまり、人間の性的な欲望を意味していると思われたからでありました。
イエスが弟子たちに対して示した「愛」、それは、その生涯、全てを捨てて弟子たちを大切にし、命すらささげるという意味であったのであります。そして、イエスは、「あなた方もそのようにしなさい」と言われた。そう言われてもなかなか実行できるものではありません。そこで、イエスは、復活した後で、弟子たちの上に、聖霊、神の霊である聖霊を注ぎ、そして、弟子たちがいわばもう一人のキリストになるように取り計らい、霊の導きによって、少しでも神の愛(原語ではアガペー、ラテン語ではカリタス、英語ではチャリティー)、そのアガペーの「愛」を生きられるように取り計らってくださるようになったのであります。神の霊である聖霊は、わたしたちに神の「愛」を促すよう、いつでもどこでも働いていてくださるとわたしたちは信じるわけであります。
地上の生涯を生きた人、ナザレのイエスという人は、三十年あまりの生涯で終わりましたが、死後、聖霊というご自分の霊を人々に注ぐことによって、いつでもどこでも人々と共にいることができるようにしてくださった。こういう信仰がキリスト教の信仰の根本にあると思います。
しかし、イエスが愛したように愛し合うということは、なかなかできることではない。むしろ、できていないという自分を自覚し、そして、ゆるしを願うことがキリスト者の毎日のあるべき生き方であると思います。
なお、イエスの復活の後、教会が成立したわけですが、いろいろな問題が起った。ユダヤ人が長い年月1000年、いや2000年ぐらい大切にしてきた彼らの掟がどうなるか、という問題です。
信仰の父と呼ばれるアブラハムに神様が命じたことは割礼という習慣です。割礼はすべての男子が生後8日目に受ける式で、神に献げられた人になるということを表すしるしでした。
それから、さらに、シナイ山で、モーセを通して与えられた神の掟、十戒があります。十戒とその十戒の解釈が数えきれないくらいの多くの掟、規則、戒めになりました。それを守るということは到底できないことでしたが、イエスはその割礼習慣、それから数知れない掟に代わって、ただ一つの掟に言い換えた、全ての掟を一つの掟に集約させた。それでやさしくなった、分かりやすくなったとも言えますが、考えようによってはもっと難しくなったかもしれない。なにしろ、人間というのは、自分のことが第一です。自分の満足、自分の欲望、自分の都合を超えて人のことを大切にするということは、どんな人にも難しいことなのです。それはつくづく思います。それでも、「神様のお望みになっていることを基にして、毎日互いに助け合いって生きなさい」という掟を残し、それを実行して亡くなられた人がナザレのイエスという人であり、そのナザレのイエスが後にキリストであるという信仰が生まれた。そういうようにしてキリスト教は成立し、そして教会がつくられて今日に至っているのであります。ですから、今わたしたちのところに、神の霊、聖霊が働いているとわたし達は信じます。
神の導きに従って生きることができるよう、わたしたちの心を聖霊の働きに委ねるようにいたしましょう。



一覧表に戻る