カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第29回「よい牧者」  2018. 4.22説教


2018.4.22  復活節第四主日  
館林教会

第一朗読:使徒4.8-12
第二朗読:一ヨハネ3.1-2
福音朗読:ヨハネ10.11-18


福音
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


説教
お早うございます。今日は復活節第四主日であります。世界召命祈願の日となっています。毎年、復活節第四主日には、ヨハネの福音の10章の羊飼いと羊のたとえが読まれます。今日の箇所は、今、お聞きになったように、
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」
と言っています。
良い羊飼いと羊の間には非常に親しい関係があります。羊飼いは自分の羊のことを良く知っている。良く知ろうと努めている。病気になったり、怪我をしたりしたら、治るように、回復するようにと努めますし、見当たらなくなると、どうしているのだろうかと思って探しに行く。困っていることがないかといつも心を砕いている。そして、羊の方は、その羊飼いを自分の羊飼いと思っているならば、羊飼いのことをもっと良く知ろうと思い、羊飼いの言うことは良く聞くようにしています。
わたしたち教会は、そのような良い羊飼いと羊の集まった団体であります。なかなか、しかし、そういうようにいかない、良い羊飼いと羊のような親しい良い関係がいつも行われるわけでもないことが、時々、問題になる。
旧約聖書を読むと、預言者という人が神様から派遣されて、羊飼いが羊飼いの役割を果たしていない場合に、強く批難しています。旧約時代の羊飼いというのは、人々の指導者、普通、王様と呼ばれる人が、羊飼いに該当するんですね。最初は、王様はいなかったですね。いなかったが、王様が欲しいと人々が頼んだので、やむを得ず王を与えた。有名な王様というと、ダビデとかソロモンとかですね。この王たちのしたことが、王がどのようなことをしたかということが、旧約聖書で、サムエル記とか、列王記とか、あるいは歴代誌という書物に書かれているわけですけれども、だいたいにおいて、神様がお望みにならないことをした人が多い。神様のお望みというのは良い牧者であることですね。苦しんでいる人、困っている人のお世話を良くする人、親のない子供、あるいは夫がなくなってしまったやもめ、未亡人、あるいは住むべき家のない、流浪の民、そういう人々のことを特に心にかけて世話をすることが牧者の務めですよ。

でも、逆に、よくない牧者というのは、自分のためになることに熱心であって、自分の持ち物を増やす、自分のことを褒めたり、どう言ったらいいのでしょうかね、自分が偉いということをいつも感じさせてくれる人、「王様、王様、王様・・」、そんな感じの人は良い羊だと、そういうようにして自分にへつらう人は、大切にするが、自分に何の良いものも持ってこないと思う人には冷たいと、そういう王様が大部分だったので、聖書は「彼らは神の目に悪とされることを行った」と、そういう一行で評価されてしまっている。

聖書の歴史の中で、現れた牧者の最後に、いわば、もう切り札というか、絶対間違いがない立派な牧者として、神の御子イエス・キリストが遣わされました。そして、イエスは、羊のためにすべてを捧げた、自分のためには何もしなかった。命も捧げた。そういう人であったということを後から弟子たちはしみじみと悟ったのであります。一緒にいた時はまだ良くわかっていなかったようです。イエスが亡くなって、十字架につけられた後、弟子たちは非常に戸惑い、怖れ、おびえてしまったが、イエスが現れて、彼らをゆるし、励ましました。「あなたがたに平和があるように」と言われた。復活したイエスに出会った弟子たちは、すっかり、心の喜び、そして勇気を受けて、人々の前で、聖霊に満たされて、救い主イエス・キリストのことをはっきりと宣言するようになったのであります。

そして、イエスという人が良い牧者であり、何をおっしゃったのか、何をしたのかということを思い出して、人々に伝えました。人は言うだけなら言えるかもしれないが、言ったことを実行するというのは易しくはありません。こうです、こうしなさいと言いながら、その人が実行していないと、人々にとってはその人の言うことがあまり効き目がないですね。自分の言うことを完全に実行できる人というのはなかなかいないかもしれませんが、弟子たちは、イエスがそういう人であったということをはっきりと思い出し、人間って、自分に都合が悪くなったり、あるいは自分に危険が及んだり、自分にとって危ないと思うと、人を助けようという気持ちよりも自分を守る方を大切にしてしまいますね。わたしたち人間は、だいたい本来、人のために良いことをしようと思っている。初めからいじわるしたり、人をやっつけようと思ったりしているわけではないが、人を助けるよりも自分のためになることの方を選んでしまうことがある。そちらの方が場合によっては多いかもしれない。イエスは自分の命が失われても、自分の名誉が汚されても、馬鹿にされても、侮られても、自分を守るために自分の力を使わなかった。わたしたちにはなかなかそうはできない。でも、聖霊の助けによって、できるだけイエス・キリストのように生きましょう。そういうように思い、そして、お互いに励ましているのがわたしたち教会です。

牧者と言えば、普通、教会の中では司祭などを指していますが、実は全員が牧者である。わたしたち、お互いに助け合う牧者でありますが、囲いの外にいる、羊がたくさんいます、とイエスは言います。つまり、まだ教会に入っていない人がたくさんいる。たくさんどころか、だいたい、ほとんどそうなので、われわれはほんのわずか。日本では、千人いたら数人しかキリスト者がいないという非常に少数者であります。ですから、わたしたちが毎日出会う人のほとんど全員はキリスト教徒ではない。でも、その人たちも、非常に親切である、場合によっては、わたしたちよりも親切だと感じることもあるかもしれない。そして、いろんなことで困ったり、寂しがっていたりする、そういう人々に、わたしたちは、自分の教会に属しているかいないかに関係なく、わたしたちにできる良いこと、何かの助け、慰め、励ましがでるよう、今日、特に、お祈りをいたしましょう。




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