カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第3回「言葉の力について」  2018. 1.28 説教


第一朗読:申命記18.15〜20
第二朗読:一コリント7.32〜35
福音朗読:マルコ1.21〜28

福音
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

説教
 わたしたちの主イエス・キリストはどんな人であるのか。何をされた人なのか。どうして、わたしたちは、イエスを救い主として信じているのでしょうか。
さいたま教区は宣教・福音化年を宣言し、信者、信徒全員が誰でも自分の信仰を宣言し、実行するようにと求められているのであります。

 ミサの中では必ず福音書が朗読されますが、特に主日の福音の朗読は非常に大切であります。今日は年間第四主日でありまして、年間という季節は主イエスが行われた宣教活動を宣べ伝える時であります。

 先週の日曜日、年間第三の主日では、イエスが4人の弟子を召し出されたという話が伝えられました。最初の弟子たち、ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコブ、この4人に声をかけて弟子になさったという話が伝えられたのであります。

 今日の福音は、イエスがなさったこと、その中で、聖書と典礼の表紙にありますように穢れた霊に取りつかれた人を癒されたという話が伝えられています。
イエスは何をした人でしょうか。神の国の福音を述べ伝えられました。そして、多くの病人やあるいは心身の問題に苦しむ人々を癒されたと福音書は伝えています。今日の福音では、穢れた霊を追い出されたと言っています。

 穢れた霊というのは何であるのか。おそらく悪霊と同じ霊を指していて、当時の人々は、人間の肉体的、精神的な問題、疾患は穢れた霊の惹き起こす問題であるという考え方をしていた。イエスは、この穢れた霊に命じて、そして、この人を癒されたということが今日の福音で述べられている。

 今日の福音の話をもう一度振り返ってみますと、イエスは、会堂、カファルナウムというところの会堂でお話しになりました。その話し方が人々を驚かせるものであった。権威ある者としてお教えになった。「律法学者のようにではなく」とあります。律法、主なる神がモーセを通してイスラエルの民にお授けになった神の掟が律法であります。そして、その律法を学び、説明する専門家が律法学者でありました。

 律法という言葉は、広い意味で言えば、モーセ5書、旧約聖書の最初の五つの書物です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などで詳しく述べられている、神が人々に授けられた戒め、律法、教えを指しています。この膨大な難しい教えを学び、そして人々に教えていた人々がいて、律法学者と呼ばれていました。後にイエスは、この律法学者と対立し、律法学者たちの恨みを買い、十字架につけられることになるのであります。

 イエスは、律法学者のようにではなく話した。律法学者は、律法にはこう書いてあります、これはこういう意味です、と詳しく説明したのでありますが、そして、律法を授けた人、律法を仲介した、神様から律法を受けて人々に教えた人がモーセです。イエスはモーセに優る人として人々に教えられました。神はこういう方である、神はこう言っておられる、あたかも自分が父である神と同じ人であるかのように話した。わたしたちは信仰宣言で宣言しておりますが、「イエスは神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神」と信じております。言わば父と一体である人として話された。

 もう一つの点がある。それは、イエスがおっしゃった言葉がすぐその場で実現した。イエスの言われた言葉を指し示す内容が、その時、その場で実現したのであります。それが今日の奇跡の話、つまり、穢れた霊を追い出されたという話であります。
言葉、日本語の言葉というのは「言の葉」でちょっと弱々しい感じがしますが、聖書、旧約聖書では言葉というものは非常に大切な考え方であり、言葉自身に力が込められている。その言葉が発せられるとその言葉が示している現実がすぐに出現すると信じていたのであります。神が「光あれ」と言われると光があった、と創世記で述べられていますね。言葉が発せられると、その言葉の指し示している内容が実現する。それが言葉だと、そういうように人々は考えた。しかし、人間の言葉は、そのような力強い言葉であるとは限らず、更に人間は、言葉と心を一致させないという問題をもっている。「嘘をつく」ということもその一つですね。心の中で思っていることと、言葉で出して言っていることとが離れている。わたしたちの場合は、多かれ少なかれそういう問題を抱えています。お世辞を言ったり、心ならずも心にもないことを言ったりすることもあるかもしれない。イエスの言葉はすぐに言葉通りの現実を惹き起こしました。

「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、穢れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」とあるのであります。

 さて、わたしたちは、キリスト者として、イエス・キリストを信じております。信じていることを、自分の言葉で、信じているその信仰を自分の言葉で、自分の生きている場所で宣言し、そしてその言葉を実行しなければならないのであります。そうできるためには更なる信仰を神様にお願いし、聖霊の助けを祈り求めましょう。聖霊がわたしたちの心に降り、そしてわたしたちの心の中から人々に、イエス・キリストへの信仰、父である神への信仰を宣言することができますよう、どうぞ助けてください。そのように祈りましょう。


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