カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第28回「キリスト者の中にいるキリスト」  2018. 4.20説教


教区司祭4月命日記念ミサ 
浦和教会
第一朗読:使徒9.1-20
福音朗読:ヨハネ6.52-59


福音
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。


説教
今日はお二人の神父様、ローランド神父様と野上神父様を記念して、ごミサをお献げいたしましょう。お二人とも、2014年の4月、ローランド神父様は4月17日、そして、野上神父様はその五日後の4月22日に亡くなられたのですね。浦和教区、さいたま教区のために多大な貢献をしてくださったお二人に改めて感謝を申し上げるとともに、永遠の安息をお祈り申し上げましょう。
 今日の朗読から三つのことを選び出して、ご一緒に味わってみたいと思います。
第一朗読は使徒言行録から採られています。パウロ、当時の名前はサウロの回心の話です。使徒言行録には三回もですね、パウロの回心の話が出ているんですね。サウロは激しくキリスト者を迫害していたんですね。それがどうして一瞬にして、キリストの使徒に変えられたのかということは大きな深い神秘であります。
「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」
という声が聞こえた。三回とも同じことを告げている。彼が強い信念をもって、正しいと思って、キリスト者を連行し、そして、殺すこともしていたわけですが、イエスの声は、その行為はキリストを迫害することであった、と言っている。彼は、キリスト者を迫害する時に、ある意味でキリストと出会っていたと言えるのでしょうか。
 次に、アナニアという人の話ですね。アナニアがサウロに按手、ミサの時も司祭が按手しますけれど、按手すると聖霊がくだって、目からうろこが落ちた。キリスト者でない人も「目からうろこ」という言葉を知っているわけです。サウロは、自分ひとりで聖霊を受けることができなかった。アナニアという人、アナニアは、あんな人のために、そんなこととんでもないですと思ったが、そうするようにと言われて按手したわけで、目からうろこが取れたという話も意味深いと思う。
 三つ目は今日の福音であります。ヨハネの6章は全体がご聖体のことだと言われています。今日もわたしたちはご聖体をいただきます。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と。イエス・キリストはどこにおられるのか。弟子たちは復活したイエス・キリストに出会って、身体を持って現れたキリストに出会って、トマスなど、ここに、脇腹に触れてみなさいと言われて、「わたしの神よ、わたしの主よ」と言ってひれ伏したわけですが、わたしたちはそういう形で復活したキリストに出会ってはいない、出会った人もいるのかもしれませんが、通常はそういう形ではないのですが、しかし、キリストはご聖体の内におられ、ご聖体をいただく人の中におられる。つまり、わたしたちの中にいる。「え、どこにいるんだろう。あの人の中にいるのかしら?」という風に、自分も含めて、こんな罪人のわたし、とてもキリストが住んでもらえるような自分ではないと思うかもしれないが、でも、ご聖体をいただく人の内にイエスはおられるとヨハネが言っているので、いるんですね。わたしたち、お互いに、相手の中におられるキリストを尊敬し、礼拝するわけです。「え、そうなの。」という気がしないではないが、それは置いといて、どんな人でも、キリストの体をいただくと、わたしたちは同じキリストの体となり、お互いに、かけがえのない大切な人として尊敬し、礼拝する間柄であるということを信じ、そして、そのような者として、毎日生きていくのでございます。




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