カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第26回「教会の誕生と神のいつくしみ」  2018. 4.8説教


2018年4月8日(日) 神のいつくしみの主日
東京教区・茂原教会

第一朗読: 使徒言行録 4・32-35
第二朗読: ヨハネ 5・1-6
福音朗読: ヨハネ 20・19-31

福音
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

説教
今日は、復活の第二主日です。聖ヨハネ・パウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と名付けられております。
2015年12月8日から、2016年11月20日、「王であるキリスト」の日までの1年足らず、「いつくしみの特別聖年」をわたしたちは祝いました。
神のいつくしみを知り、いつくしみに生きるということは、わたしたちキリスト者が、毎日心掛けるべきことです。イエスの弟子たちは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから神のいつくしみを学び、そして、キリストの復活という出来事に出会って、喜びと勇気をもって宣教を開始し、教会という共同体を造りました。

今日のヨハネの福音は「週の初めの日の夕方」という言葉から始まっております。「週の初めの日」というのは、今日(こんにち)で言えば、日曜日に当たります。弟子たちは、どちらかの家に集まって、その家に鍵をかけていた。それは、ユダヤ人が恐ろしかったからです。イエスの身の上に起こったこと、それは、非常に残酷な、恐怖を起こさせる出来事でした。弟子たちは、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまいました。どちらかの家に集まって、肩を寄せ合っていたのでしょう、家に鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスが入って来られて、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。どのようにして、扉を通って来たのでしょうか。
「あなたがたに平和があるように」。
この言葉を、司祭はミサを献げるときに、何度も唱えます。そして、わたしたちも、手紙を書くときなどに、挨拶として使っている言葉です。「平和」とは、旧約聖書以来使われている、非常に重要な言葉であり、欠けたところのない神のみこころが、十分に実現している状態であるとされています。
この場合、弟子たちにとっての「平和」は、何であるか。ユダヤ人に逮捕されたり、処刑されたりするという恐れもあったでしょうが、恐らくは、何よりも、主イエスと離れている状態、イエスが取り去られてしまった、そして、自分たちは彼らを見捨て、彼らはイエスを見捨ててしまった、いわば、「裏切ってしまった」という罪の意識、後ろめたさが、彼らの平安を奪っていたのではないかと思います。
「あなたがたに平和があるように」
とイエスは言われたので、彼らの心は平和で満たされました。
「弟子たちは、主を見て喜んだ」
とあります。そして、更に、イエスは彼らに聖霊をお与えになりました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦され
る」。
イエスから、罪の赦しを受けた弟子たちは、更に、人の罪を赦すことができるように、聖霊を受けました。
さて、その大切な場面に、12人の中で1人の弟子、トマスは居合わせなかった。疑い深いトマスと言われますが、トマスはイエスのご出現を信じなかった。トマスは、それから8日後、つまり、今日の典礼は復活の日から2週間目を想定した日ですが、トマスの前に現れて言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
トマスは、イエスに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。
この弟子たちの体験、罪のゆるしを受けたという体験、神のいつくしみに満たされたという体験がわたしたちの教会の誕生の起源となっているのです。

わたしたちは、復活の出来事があってから、すでに2千年以上経過しているときの信者です。イエスに会ったことがない、復活したイエスの肉体を見たことがないにもかかわらず、わたしたちは、復活を信じ、キリスト者となっております。現代において、復活を信じて生きるということは、更なる努力が必要です。たびたび、神の言葉、キリストの言葉を聞き、ご一緒にお祈りし、励まし合いましょう。 この世界の現実の中で、困難の多い状況において、神の導き、復活の光を見つけるように努めようではありませんか。
聖霊の恵み、助け、導きを祈りましょう。

わたしたち教会は、キリストの復活を告げ知らせる神の民です。キリストが復活した、死と罪に打ち勝ったという信仰を、人々にあらわす団体、イエス・キリストが、復活して、今もわたしたちのところに来てくださるという信仰、イエス・キリストの復活の現存、復活したイエスがいてくださるという信仰を表す、そのような印である教会です。
わたしたちを見て、イエス・キリストの復活の印があると、多くの方が見てくださるような、わたしたちでありたい。そのためには、わたしたちは、よく祈る神の民、神のいつくしみを実行する神の民、お互い助け合っている神の民、最初の教会のような教会でなければならないと思います。


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