カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第21回「神から見捨てられる苦しみ」  2018. 3.25説教


受難の主日の説教
2018年3月25日、浦和教会

第一朗読 イザヤ50.4-7
第二朗読 フィリピ2.6-11
福音朗読 マルコ15.1-39

福音
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


説教
今日から聖なる一週間が始まります。今年の受難の主日の福音は、ただいま読み上げられましたように、マルコによる福音であります。イエスの受けた苦しみはどのようなものであったのでしょうか。わたしたちは毎年、特に聖なる一週間において、福音書の朗読を聞きながら、そのお苦しみを偲び、そして、わたしたちも少しでもその苦しみにあずかり、主の復活の喜びに達することができますよう願っています。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 
この言葉が、十字架の上のイエスの口から、人々の耳に届きました。人々は非常に強い印象を受けたので、もとの言葉の発音をそのまま福音書に残したのだと思われます。
「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味であるとマルコの福音が解説しています。そして、この言葉は、先ほどわたくしたちが唱えた答唱詩編の冒頭の言葉と同じであります。
「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのか。」
詩編22の言葉です。この言葉を口にのぼらせたイエスは、その時、どのような気持ちを持っておられたのでしょうか。

天の御父から派遣され、御父のみ心を行ってきたイエスは、人々から見捨てられ、そして嘲られ、みじめな最期を遂げようとしています。天の御父は、そのような自分をどのような心で見ているのだろうか。肉体的な苦しみはもちろんのことでありますが、人々から見捨てられ、嘲られ、侮られる苦しみ、それにもまして、天の御父からの何の応えも受けられない、父の沈黙、という苦しみがイエスを襲っていたのではないだろうか。それでもイエスは、最後まで、天の御父への信頼を保ち続け、そして、
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)
「成し遂げられた。」(ヨハネ19・30)
と言って、息を引き取られたのでありました。
わたしたちの日々の生活は、このイエスの受けたような苦しみとは程遠い、小さな、小さな悩み、苦しみから成り立っていると思いますが、その小さな、ささやかな悩みですら、平静に、謙遜に、従順に受け止めかねている自分があるのではないだろうか。この一週間、心静かに、聖週間の典礼にあずかりながら、わたしたちが主の過ぎ越しの神秘にあずかり、復活の喜びを共にすることができますよう、共にお祈りいたしましょう。





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