カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第16回「新しい契約の血」  2018. 3.18説教


カトリック高崎教会

第一朗読:エレミヤ31.31-34
(本文) 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二朗読:ヘブライ5.7-9
福音朗読:ヨハネ12.20-33
(本文) さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。


(説教)
 高崎の教会の皆さん、今日は四旬節第五の主日であります。復活祭まで二週間。一週間後は受難の主日でありまして、聖週間に入ります。主イエスの受難の時が近づいている。今日はそのような雰囲気が伝わってくるヨハネの福音ではないかと思います。
「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」
と言われ、また、
「わたくしに仕えたい人はわたしに従いなさい。わたしがいるところにわたしに仕える人もいる」
と言われました。

 このイエスの言葉は、受難のあとの復活の出来事をあらかじめわたしたちに指し示しているのではないだろうかと思います。復活とはどういうことか、ということは、復活祭になって、またじっくり味わうことにいたしましょう。多くの実を結ぶという言葉の中に、わたしたちの復活のこと、わたしたちが復活の恵みに与り、永遠の命を受けることが入っているのだと思います。 

 今日は、それと深い関係のある言葉、「契約の血」ということを取り上げたい。「契約の血」、よく聞く言葉ですね。これがなじみにくい。わたしたちキリスト教徒は「契約の血」ということを知っていますけれども、わたしたちというか、この日本では、この「契約の血」という言葉はあまり生活の中では使われない言葉ですね。皆さんは、ミサの時、必ずこの言葉を聞いています。

 「みなこれを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」

 司祭がこのように唱えます。そして、「信仰の神秘、主の死を思い、復活をたたえよう。主がこられるまで」と応答することになっていますね。この司祭の言葉の中に深い意味が込められている。日ごろ、毎度のことなので、あまり考えないかもしれませんが、しかし、どういう意味だろう、どういうことだろうかと思うと、説明するのが容易ではないと思う。

 特に、この「契約の血」という言葉は何でしょうか?「契約」は、我々が毎日生活の中で使っている言葉ですね。われわれの生活はいろんな契約で成り立っていますので、すべて契約と言ってもいいでしょうかね。電車に乗るのも、お金を払って乗せてもらうわけだから、ここに小さな契約があるわけであります。しかし、この聖書の世界で、そして、ミサの中で使われている「契約の血」という言葉はどういうことだろうか。わたくしが千葉県の教会で主任司祭をしておりました時に、全くキリスト教とは関係のない人が家族に誘われて初めてミサに出席した。日本語ですから、言われている言葉は通じます。そして「契約の血の「血」は恐ろしい」とそういうような印象を持ったわけであります。

 そして、「新しい契約の血」と言われているのです。この「新しい契約」という言葉は、今日の第一朗読で、エレミヤが言っている言葉ですね。古い契約はもう終わりになります。新しい契約をたてます。契約の時に結ばれる、約束する約束事。前の古い契約の時は、神様がモーセに授けた十戒ですね。十の掟。この石の板に刻まれていた十戒をモーセが神様から頂いて、イスラエルの民に示して、そして、全員これを守り行います、と言った。その時に、動物の血、雄牛の血を振りかけたのですね。血の半分を祭壇の上に、残りの半分を民の上に振りかけた。こういう風景が我々には理解しがたいのですね。想像してみていただくと、血のにおいが立ち込めている、そういう場面ですね。この血を流す、動物を殺して、その血をもって契約を締結するという、そういう考えのようなのですね。このようにして成立した契約ですけれども、イスラエルの民は契約を守らなかった。守れなかった。そこで、もう一回やり直します。新しく契約を結びます。今度は、石の板にではなくて、あなたがたの胸の中に、心の内にわたしの掟を刻み込みます。外にではなくて、中に、心の中に、神様の掟が入ってきます。自分から神様のみこころを行うことができるようになります。します。そういう意味だと思う。エレミヤの預言。

 そして、ナザレのイエスという人が登場した。そして、イエスは最後の晩餐の時に、このぶどう酒の入った杯を手にとって、
「これはあなたがたのために流される新しい契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」と弟子たちに命じた。これはぶどう酒ですね。動物の血ではない、ぶどう酒です。ミサの時に、血の匂いがするぶどう酒に変わるわけではない。でも、わたしたちは信じている。これはただのぶどう酒ではありません、主イエス・キリストの御血です、このぶどう酒を献げることによって、新しい契約が成立しているということを、わたしたちはいつも思い起こす。それがミサであります。

 そして、このイエスが、わたしたちのために、わたしたちのために、というのは、わたしたちが原因で理由でという意味もあれば、わたしたちを救うという目的のために。原因と目的と両方だと思う。わたしたちのせいで、日本語で「せいで」の方がわかりやすいかな。英語ではbecause ofということになるかな。ためにはFor the salvation。だから、救うためにということと、わたしたちが罪を犯しているので、という理由と、救うためにという目的とがあると思うが、とにかく、わたしたちのために流されるわたしの血である。でも、そういっただけで、何もしなければ意味がありませんが、実際にイエスは十字架の上で血を流して、命を献げました。そして、そのおかげで、わたしたちは多くの実を結ぶ、その実の中に入れていただく、そして、天の御父のところに住むことができるようにしていただける、ということをわたしたちは信じている。

 こういう教えを人々に伝えて、信者になってもらいたい。もう難しいと思う。どういう風に話したらよいのか。わたしが今、自分の言葉でわかりやすく話たつもりなのだけど、自分でも難しいと思う。皆さん、どういう風に説明されますか? もっとやさしく言えますか? 血、契約の血というのが馴染みにくいですよね。

 動物を「ほふる」、と日本語で言いますけれど、この、血を流すということは、つまり、命を失うということなのですよね。わたしたち人間も、出血多量で死亡します。体から血がたくさん出れば死んでしまう。

 聖週間、受難の主日、聖金曜日が間もなく来るのですよ。本当に目の前で人間が磔になって、血をたらたら流している風景を見たら、わたしたちはどんなにびっくりするでしょう。でも、そういうことがあったのだね、というふうに思っているだけだとあまり感銘を受けない。

 今日はとにかく、「新しい契約の血」、ということをしみじみと味わってください。




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