カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第20回「主の霊に従って歩む」  2018.3.24説教


聖心女子専門学校「感謝の会」感謝ミサ説教
2018年3月24日13時半、聖心女子学院ソフィアバラホール
第一朗読 コロサイ3・12-17
福音朗読 ヨハネ15・1-10

福音
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

説教
 イエスは言われます。
 「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫である。・・・わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。・・・あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。…わたしの愛にとどまりなさい。・・・」

 イエスにとどまる、とは、イエスの愛にとどまること、それはイエスの愛を実行することであります。第一朗読で言われています。

 「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。…これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。・・・」

 イエス・キリストの教え、キリスト教の生き方は、この聖書の言葉によって明瞭に示されています。キリストにつながっている人は、キリストの心を生きています。キリスト教徒であっても、キリストの心を実行しているとは限りません。

 最近のカトリック教会の大きな問題は、教会奉仕者による暴力的行為、特に性虐待・性暴力という問題であります。この場合、その人はキリストにつながっているとはいえません。それどころが、悪からの誘惑に引きこまれている状態にあります。

 使徒パウロは神の霊、キリストの霊に従って歩むよう、キリスト者を励ましています。霊による実りとは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と言っています。わたしは、このような人徳を持った人にたびたび出会います。その人たちは、洗礼を受けてはいないかもしれませんが、神の霊、聖霊の導きのもとにあるのだと思います。

 以上は個人的な行いの問題ですが、教会総体として、神の民は、聖霊の実りをどのようにもたらし、肉の業との戦いをどのように行ってきたでしょうか。紀元2000年を迎えるに際して、聖ヨハネ・パウロ二世は「紀元二千年の到来」という教皇書簡を発表し、過去1千年間を振り返り、特に反省すべき事項を述べています。教皇は「教会、すなわち、わたしたち神の民は、過去の過ち、不信仰、一貫性のなさ、必要な行動を起こすことにおいて緩慢であったこと」を告白しました。教会のメンバーによる過ちの中には
「教会の分裂」という問題、「真理への奉仕における不寛容、さらには暴力の行使」、また「全体主義政権による基本的人権の侵害を見過ごしたこと」が含まれておりました。また、ユダヤ人への迫害と差別の事実を認め、謝罪されました。この行為は、実に革命的といってもよいことでした。
とは言え、わたしたちの教会は、主イエスの教えに忠実にとどまり、愛の行い、慈しみの業を実行してきたということは、数々の聖人たちの生涯などを通して明らかに示されています。教会は人々へのいつくしみ深いわざを行うことによって、神の霊が教会の中で確かに生き、かつ、働いていることを証ししてきました。

 教皇フランシスコが、「いつくしもの特別聖年」に際して、人々に行うように勧めた慈しみの行いの中には、次のような項目が含まれています。

1. 飢えている人に食べ物を与える。
2. 渇いている人に飲み物を与える。
3. 着る者のない人に衣服を与える。
4. 宿のない人に宿を与える。
5. 病者を訪問する。
6. 受刑者を訪問する。
7. 疑いを抱いている人に助言すること。
8. 無知な人に教えること。
9. 罪びとを戒めること。
10. 悲嘆に暮れている人を慰めること。

 このような慈しみの行いを行う人々が多数現れ、同じ目的をもつ団体なり、修道会などが結成されました。人々は、助けを必要とする人々のために巡礼宿泊所、病院、学校、救護施設等を創設し、支援するようになったのです。多くの修道会は、イエスの愛の教えを実践するために創立されたのです。

 さて、今の社会で最も必要で大切な慈しみのわざとは何でしょうか?わたしがもっとも心配していることは、多くの人が孤独であり、生きる意欲を奪われている、という現実があるということです。ひとり一人の人の尊厳が認められ、尊重され、大切にされる社会を建設するためになすべきことは多いと思います。
・・・
 聖霊の助けを祈りましょう。





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