カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第15回「主の祈り」  2018. 3.11説教


さいたま教区青年召命黙想会説教
2018年3月11日(日) 四旬節第四主日
春日部教会

第一朗読:歴代誌下36・14-16、19-23
第二朗読:エフェソ2・4-10

福音朗読:ヨハネ3・14-21
 (そのとき、イエスはニコデモに言われた。)「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

(説教)
 春日部の教会の皆さん、四旬節の第四主日でございます。ただいま読まれましたヨハネの福音は、イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられます、という、信仰の中心になるメッセージが伝えられています。イエス・キリストを信じるということは、イエス・キリストが示された天の御父を信じるということであります。天の御父を信じるというのは、天の御父はすべての人が救われることを望んでおられる、御自分の幸せに招いてくださっている、ということを信じる、ということだと思います。

 ところで、神様がどんなにわたしたちの救いを望まれるかとしても、わたしたちの方が神様の心を信じ、受け入れ、そして、神様の恵みを受けなければ、神様の方も人間を無理やりに救うということはなさらない、あるいは、お出来にならない、と言ってよいでしょうか。

 どうして、人間は、神様の愛、神様のいつくしみを信じることができないのでしょうか。イスラエルの民の歴史を振り返りますと、イスラエルの民と主なる神様との間の交わりが展開しております。神様は、何度もイスラエルの民に招きの言葉を送り、使者を送りました。しかし、彼らは信じなかった。あるいは、真剣に受け止めなかった。そういうことが繰り返されたのであります。どうして、彼らが、神の使者、預言者たちを信じなかったのでしょうか。信じるということは、イスラエルの民だけでなく、人間にとって最も難しい問題ではないだろうかと思います。

 今日は何の日かというと、3月11日は東日本大震災の日なのです。7周年になります。どうして、このような出来事、多くの人が苦しむような出来事が起こったんでしょうか。福島の原子力発電の事故は、人間が引き起こしたという面があります。しかし、津波の方はわたしたちにはどうにもならない、自然の災害ですね。どうして、このような不幸、災害が起こるのでしょうか。災害ばかりでなく、病気とか、色々な困難なことが人生にはあるわけです。どうしてなのかと思うわけです。それはあたりまえで、ですから、どうしてかと考えないという人もいるかもしれませんが、やはり、通常は、どうしてかと考えてしまう。

 次に浮かんでくる思いは、神様がいるのにどうしてこういうことが起こるのだろう、神様がそういうことを引き起こしているんだろうか、神様が人間を苦しめてやろうと思って、そういう、人間にとってつらいこと、悲しいこと、苦しいことを引き起こしているのだろうか、どうなんですかという疑問が沸いてくるかもしれない。・・・神様なんかいないのじゃないか。いるならば、こういうことが起こらないのではないだろうか、あるいは、いるのにこういうことが起こっても何もしてくれない神様なんか信じられないのではないか、というように思いませんか?

 そういう思いが出てくるし、わたしたちはキリスト教の信者ですけれども、そうでない人に訊くと、あなたがたは神様を信じていて、神様がいるのに、どうしてこんなことがあるのか、わたしは信じられないよと言うかもしれない。実に、信仰の難しさというのは、わたしたちには受けとめにくい、わかりにくい様々な不幸が起こった時に、それでも神を信じます、神様は愛です、神様はわたしたちの幸せを願っておられますと信じ続け、そして、その信仰を人々にも言い表し、そして、なお、そういうものとして、めげず、落ち込まず、どころか、胸を張って明るく生きていくことではないかと思います。なかなかそれは難しいと思いますが、こういうような人生における難しい出来事を、試練という言葉で言い表すこともありますね

 人生は試練の連続なのですね。しかし、その試練の中に素晴らしいこと、美しいこと、嬉しいことがたくさんある。試練があるから、喜ばしいこと、嬉しいことが見えてくるという面もあるかもしれない。他方、苦しいことがあった時に、わたしたちの心は、一時的にせよ、乱れる、揺れる、そして、疑いを持つ、あるいは、他の人を見て、妬んだり、羨んだり、あるいは、場合によっては憎らしいと思ったりしてしまう。そういう、この悪い思いというものが、わたしたちの心の中に出てくると思います。わたしたちの中にある、そのような色々なマイナスの思いというものを、わたしたちは全然そういうものがないようにはできない。そういう思いがあっても、それでも神様を信じてお祈りします。

 昨日から青年たちと一緒に黙想会をしておりまして、「主の祈り」について学びました。主の祈りの中に、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」という言葉がある。その言葉で結ばれているわけですね。昔は、「われらを試みに引き給わざれ」と言っていたのです。困難なことがあるときに、わたしたちは誘惑を受ける。神様は信じられないとか、あの人たちのことが妬ましいとか、妬ましいから始まって、もう恨めしいとか、憎たらしいとか思ってしまう。そう思ってはいけないと思うが、そういう思いが出てくるかもれない。わたしたちを悪からお救いください、という風に言っています。悪というのは何でしょうか。災害とか、病気とか、そういうことも含めて、様々な良くないことだろうと思うが、人間が犯す悪いことは神様に対して罪を犯すことですね。あるいは、もう一つは、悪い者というように解釈することもできるのですね。悪い者というのは、つまり誘惑する者、悪に誘う者、誘惑者、悪魔ですね。悪魔の誘惑に負けないようにお守りください、という意味であるかもしれない。両方の解釈が可能で、どちらが間違っているということではないと思います。

 さて、わたしたちを誘惑に陥らないようにお守りくださいという願い、それは第一に、神様への信仰を失わないように、失わないようにどころか、しっかり保ち、強くしていただけるようにと願うことです。そうさせるような悪の力、それはどこから来るか、自分の心の中にあるか、あるいは悪霊という、福音書にたびたび出てくる悪の力であるのか。ともかく、誘惑する者に負けないように、わたしたちを強めてください、と祈ります。悪霊に負けないように、聖霊の助けをどうかお願いします、と祈る、そういう意味ではないかと思います。東日本大震災で今なお苦しみ悩む多くの人々が、慰めと心の平和を与えられ、色々な苦しみ、困難の中で、希望を持って歩むことができますよう、そして、わたしたちがその人たちと連帯して、わたしたちにできる支援を心から捧げることができますよう、神様の助け、聖霊の導きをお願いいたしましょう。





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