カトリックさいたま教区
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信仰講座 ARCHBISHOP COUSE

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■ 第12回「聖書の神殿である教会」  2018. 3. 4 説教


第一朗読:出エジプト20・1-17
第二朗読:一コリント1・22-25

福音朗読:ヨハネ2・13-25
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

説教
 ミサのたびに、必ず、福音書の朗読が行われなければなりません。福音書は、イエスという人がどんな人であったのか、何を言われたのか、何を行われたのかということを、わたしたちに告げ知らせ、わたしたちがなお一層、主イエスを深く知るようにと、わたしたちを諭し、わたしたちの信仰を深めるように助けてくれます。

 今日読まれた箇所は、いわゆる「イエスの宮きよめ」の場面です。ここでは、イエスが神殿で行った、言うならば随分乱暴な行いを述べているわけであります。
では、」イエスは乱暴な人だったのか。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)とイエスご自身が述べています。しかし、今日の場面を読むと、イエスの姿は、その言葉とは違うのではないか、と思わせられるかもしれません。ここで見られるイエスの姿は、怒り、激しく憤っている姿であります。
このイエスの「宮きよめ」と言えば、先ほど、子どもたちとの対話集会の時に、思い出したことがあります。わたしが子どもの頃、戦争が終わって間もなくの頃なのですけれども、わたくしの住んでいた田舎で、キリスト教伝道の映画会がありました。場所がありませんので、学校の講堂で映写されました。ほとんど何も覚えてないが、一つの場面だけ鮮明に記憶しています。それは、鳩がバタバタと飛び立つ場面です。その場面は今日の福音の箇所であったと思うのです。

 イエスは、ご自分で屋台をひっくり返して言われました。

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」

 この神殿は、今は存在しません。ローマ軍によって破壊されてしまいました。ソロモン王は非常な壮大な神殿を建てましたが、それはバビロン捕囚の時、侵入したバビロニアの軍隊によって破壊され、後ほど再建されて、さらにヘロデ大王によって修復されました。それは、非常に立派な壮大な建物でありました。そこで犠牲を献げるために、牛や羊や鳩が必要でした。そこに参詣した人がお金を出して、買うわけです。非常に厳しい細かい規則があって、合格したいけにえでないと受け取ってもらえないということになっておりました。それから両替人という人が必要であった。神殿に捧げる献金は、ローマの貨幣や他の国の貨幣は使えない。神殿で通用するお金に両替してもらわないといけない。両替人は手数料など取って、法外な利益を得ていたとあります。神殿で商売し、神殿で利益を得、そして、食いものにしている人たちがいたわけですね。イエスはこの神殿の在り方、神殿の様子を見て、大変立腹された。そして、このような、言わば暴力的な挙動を起こされたのであります。いつも弱い人や苦しんでいる人に優しく丁寧で、いつくしみ深いイエスが、この時ばかりは随分激しく怒り、そして、直接行動に訴えられる。この出来事をわたしたちはどう受け取ったらいいのだろうか。

 話は逸れますけれども、わたしたちの持っている色々な問題の中に、人の言う事を恨んだり、妬んだり、不快に思ったり、そして怒ったりするという。この怒りという気持ちは、なかなか収めようがないわけで、きちんとした収め方を学ばない。怒りは場合によっては犯罪になったり、人間関係を悪くしたりするわけであります。・・・わたしたちは自分の不快な気持ちとか、憤りとか、怒りという問題に悩まされています。あるいは企業でもそういう問題に悩んでいるかということがわかる。人の修行の第一行は、自分の怒りをどう収めるかということですね。

 それではイエズス様はどうだったのかというと、この場合の怒りはわたしたちの怒りとは違う。わたしたちの怒りは自分のほうに問題がある。自分の思いが通らないので怒る。イエスの場合の怒りは、いわば、義憤、あってはならない不正と冒涜に対する激しい怒りの気持ちであります。イエスの生涯をみると、神殿を拠り所にする勢力である祭司、そして律法を拠り所にする律法学者、ファリサイ人、そういう人と対立し、最後に処刑されるという生涯であります。

 この時イエスは言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
イエスが復活された後で、弟子たちは悟りました。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」
イエスは復活し、弟子たちに聖霊を注ぎ、新しい教会を建設されました。わたしたちがその教会を構成しているわけであります。わたしたちは神殿である。何の神殿か。聖霊が宿る神殿である。わたしたちは自分の体、そして自分の共同体を聖霊の宿る神殿として、もっと強くはっきりと自覚し、そして、それに相応しい教会へと変わっていかなければならない。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活を信じます、と言っています。「聖なる教会」、確かに聖霊は働いている教会です。しかし、聖霊を受けても、受ける側が信仰をもって謙遜にきちんと応じなければと聖霊の実りがあまり与えられません。

 さいたま教区は、復活祭の後、宣教・福音化年第二年を迎えます。聖霊の恵みを受けて、わたしたちの教区が本当に刷新され、自らを聖霊の神殿として人々にイエス・キリストの姿を示すことができますよう、特に今日、お祈り申し上げましょう。


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