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聖金曜日「主の受難」



2016年3月25日 聖金曜日・主の受難


カトリック館林教会

第1朗読  イザヤ 52・13-53・12
第2朗読  ヘブライ人への手紙 4・14-16,5・7-9
福音朗読  ヨハネによる主イエス・キリストの受難 18・1-19・42


 今日は、主イエス・キリストのご受難を特別に深く黙想すべき日です。
4つの福音書は、いずれもイエスの受難の様子を詳しく述べています。4つの福音書のなかで、マルコの福音が最も古く成立した福音書であると考えられます。イエスの受難の様子は、目撃者に深い印象を残しました。マルコは、目撃者の証言をできるだけ忠実に書き残したと思われます。今日聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。4つの福音書の中で最後に成立したヨハネの福音では、受難に際しての毅然としたイエスの姿がうかがえます。イエスは言いました。
 「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。
 このようなイエスのことばには、父である神の御心を行おうとする強い意志が感じられます。
 他方、ペトロをはじめ弟子たちは恐怖のあまり、イエスを見捨ててイエスから離れてしまいました。ただ母マリアとほかの女性たちはイエスの十字架のもとに佇んでイエスの最後をみまもっておりました。
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(ヨハネ19・25)
 女性たちは、悲痛な思いでイエスの苦しみをともにしていました。この人たちは最後までイエスに付き従った忠実な弟子でありました。
 ところでほかのイエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士と群集は、騒然とした状況の中で、恐怖、憎悪、嫉妬、敵意、悪意などのよこしまな思いに捉えられています。それはいわば狂気のような異常な感情です。その渦中で、イエスだけはあくまでも冷静であり、心の均衡を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことができたことでしょう。
総督ピラトは、イエスに出会って深い印象を持ったようです。ピラトはイエスに何の罪も見出せませんでした。ピラトは、イエスを釈放しようとしますが群集の脅迫に屈してしまいます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」(ヨハネ19・12) ピラトはこの言葉を受け、保身のためにイエスをユダヤ人の手に渡してしまいます。

 イエスの死は、どのような意味があったのでしょうか。教会は旧約聖書のイザヤ書にその理由を説明しています。
イザヤは、主の僕の歌を残しました。「主の僕はわたしたちの病を担い、わたしたちの背きのために苦しみ、懲らしめをうけ、わたしたちの罪の償いを背負わされた」 (本日の第1朗読 イザヤ52・13-53・12)
 第二朗読のヘブライ人への手紙では、「キリストは・・・多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、後自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ5・8-9)と述べています。イエスの受難はすべての人々の救いのためでした。
 使徒パウロはさらに、イエスの受難は信じる者のために罪の償いの供え物であると述べています。(ローマ3・24)
 イエスの受難は罪人であるわたしたちの救いのための苦しみであり、その死は償いと贖いのための死でした。

 さて今日の盛式共同祈願のなかに、「神を信じない人々のための祈り」があります。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の改心と刷新が必要です。
 わたしたちは今日、つぎのように祈ります。
 「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように。」
 このような証人なることができますように祈りましょう。


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