カトリックさいたま教区
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教区司祭12月の命日記念ミサ



2015年12月11日 司祭命日記念ミサ


カトリック浦和教会

故 アルベルト・コルベジュ神父(1996年12月2日帰天)
故 ユージジェン。ジュゲ 神父(2003年12月7日帰天)
故 グレゴリオ 犬飼 誠一神父(2007年12月1日帰天)
故 ジャン・ワレ     神父(2012年12月3日帰天)

第一朗読 イザヤ48・17-19
福音朗読 マタイ11・16-19

待降節の主人公は、もしかして洗礼者ヨハネかもしれません。マルコ福音書によれば、彼「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1・6)となっています。とてもわたしたちがまねることのできない生き方です。ところが、今日のマタイの福音では、イエスの生活のスタイルは、ヨハネとは非常に対照的であるとされています。
「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、9 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」(マタイ11・18-19)
この対比にすこし戸惑います。どう考えたらよいのでしょうか。イエスはヨハネを高く評価しています。ヨハネは預言者以上の者であり 、メシアの辿る道を準備する者です。女から生まれた者でヨハネより偉大な者はいないのです。(ルカ7・26-28参照)
しかしイエスは言います。
「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7・28)
このイエスの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
「神の国」の福音は何より、新しい恵みの段階の到来を意味します。それは貧しい人々、排斥され軽蔑されていた人々、とても厳しい律法を守れない弱い人々への福音の告知でありました。罪人であっても、イエスによる罪のゆるしを受けた者は神の国に入ります。人間として立派な行いをすることができない人でも、神の恵みに与れば、神の命へ高められます。どんなに立派な人でも、自分の努力だけで神の国に入ることはできません。わたしたちは神のゆるしと愛を信じて神の子とされるのです。
教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」を告げる大勅書の中で言われます。
「イエスは、律法を遵守することについてよりも、信仰の大切さについて何度も説いています。イエスの次のことばをそのように理解しなければなりません。それは、イエスがマタイや他の徴税人、罪人と一緒に食卓に着いていたときに、ご自分を批判するファリサイ派の人々に言った『わたしが求めるものあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)ということばです。」
是非、教皇フランシスコの『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔(いつくしみの特別聖年公布の大勅書』をお読みください。
なお、先日わたくしは、「『いつくしみの特別聖年』を迎えるにあたって」という手紙を皆さんに送りました。その中で述べていますが、この浦和峰教会は巡礼指定聖堂となっています。この聖堂を訪問し、教皇様の指定のお祈りをし、ゆるしの秘跡を受け、聖体拝領をし、免償をお受けになるようお勧めいたします。

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