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松が峰教会堅信式



2015年12月 6日 待降節第二主日


カトリック松が峰教会

待降節第2、第3主日の福音は、毎年洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。洗礼者ヨハネは待降節の主要な登場人物です。
今日のルカの福音によれば、洗礼者ヨハネは「パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいる」(ルカ7・33)人でした。また、マルコの福音によれば「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1・6)となっています。とてもわたしたちがまねることのできない生き方です。
ところが、ルカの福音では、イエスの生活のスタイルは、ヨハネとは非常に対照的であるとされています。イエスは「大食漢で大酒飲み」(ルカ7・34)と言われています。イエスは徴税人や罪人の仲間となり、一緒に飲み食いしていたのです。
この対比にすこし戸惑います。どう考えたらよいのでしょうか。イエスはヨハネを高く評価しています。ヨハネは預言者以上の者であり、メシアの辿る道を準備する者です。女から生まれた者でヨハネより偉大な者はいないのです。(ルカ7・26-28参照)
しかしイエスは言います。
「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7・28)
このイエスの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
同じルカの次の箇所が参考になります。ルカの7章の続きの箇所(ルカ7・36-50)は、イエスが罪深い女をゆるす話です。イエスは泣きながら自分の髪の毛でイエスの足を拭い、足に接吻し、高価な香油を塗った「罪深い女性」に向かって、「あなたの罪は赦された」と言われたのです。ここに、ヨハネの厳格な態度とは異なるイエスの姿があります。罪びとをゆるし、受け入れるイエスの姿が示されています。ヨハネの教えは厳しい弾劾の叫びでした。イエスが表すのは自らの罪を嘆く女性への優しい愛です。
「神の国」の福音は何より、罪人への福音、軽蔑されていた人々、とても厳しい律法を守れない弱い人々への福音でありました。罪人であっても、イエスによる罪のゆるしを受けた者は神の国に入ります。人間として立派な行いをすることができない人でも、神の恵みに与れば、神の命へ高められます。どんなに立派な人でも、人間の力で神の国に入ることはできません。わたしたちは神のゆるしと愛を信じて神の子とされるのです。
「知恵の書」は言います。
「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われ ない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵の書11・24-26)
教皇ベネディクトの回勅『神は愛』を思い起こします。
「神の人間に対する「エロース」は同時に完全な意味で「アガペー」でもあります。・・・神の愛がゆるす愛でもあるからです。・・・自分の民―人類―に対する神の情熱的な愛は、同時にゆるす愛です。この愛があまりに大きいために、神は自らに逆らい、神の愛は神の義に逆らいます。…神の人間に対する愛があまりに大きいために、神は人間になり、死に至るまで、人間に従う者となりました。こうして神は正義と愛を和解させたのです。」(『神は愛』10より)
教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」を告げる大勅書の中で言われます。
「イエスは、律法を遵守することについてよりも、信仰の大切さについて何 度も説いています。イエスの次のことばをそのように理解しなければなりません。イエスがマタイや他の徴税人、罪人と一緒に食卓に着いていたときに、ご自分を批判するファリサイ派の人々にいった、「『わたしが求めるものあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9・13)ということばです。・・・パウロの義の理解は根本的に変わります。彼が今や第一に据えるのは信仰であり、もはや律法ではありません。救いをもたらすのは律法の遵守ではなく、イエス・キリストへの信仰、それも死と復活を通して救いをもたらし、わたしたちを義とするいつくしみを与えてくださったイエス・キリストへの信仰です。今や神の義は、罪とその結果にとらわれ苦しむ人にとっての解放となります。神の義とは、神のゆるしなのです。(詩篇51・11-16参照)(大勅書20項より)
「もし神が正義のみにこだわるかたならば、神であることをやめることにな るでしょう。そして、律法の遵守を主張するすべての人と同じくなってしますはずです。正義だけではたりません。・・・神はいつくしみとゆるしを携えて正義を超えておられるのです。・・・ゆるしの優しさを体験することによる回心の始まりなのです。」(大勅書21項より)
是非、教皇フランシスコの『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔(いつくしみの特別聖年公布の大勅書』」をお読みください。
なお、先日わたくしは、「『いつくしみの特別聖年』を迎えるにあたって」という手紙を皆さんに送りました。その中で述べていますが、この松が峰教会は巡礼指定聖堂となっています。この聖堂を訪問し、教皇様の指定のお祈りをし、ゆるしの秘跡を受け、聖体拝領をし、免償をお受けになるようお勧めいたします。

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