カトリックさいたま教区
ホーム・Home初めての方へ・Welecomeお問い合わせ・Contactサイトマップ・Sitemapご利用について・Conditions of Useリンク・Links文字サイズ・Text sizeQRコード
カトリックさいたま教区

教区管理者 APOSTOLIC ADMINISTRATOR



メッセージの記録一覧に戻る

群馬西ブロック・合同堅信式



2015年9月13日 年間第24主日 群馬西ブロック合同堅信式


カトリック高崎教会

第一朗読 イザヤ50・5-9a
第二朗読 ヤコブ2・14-18
福音朗読 マルコ8・27-35

今日これから行われる堅信式では、洗礼を受けて神の子とされている人々に聖霊の7つの賜物を授ける秘跡です。7つの賜物とは、司教の唱える祈りの言葉によって示されています。それは、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、となっています。今日はこの7つの賜物のなかの一つ、「神を知る恵み」を取り上げたいと思います。
今日の福音を見ましょう。イエスは弟子たちに訊ねました。「あなたがたはわたしを誰だと思うのか。」ペトロは答えました。「あなたはメシアです。」ペトロは立派な信仰告白をしています。イエスはこの後、受難の予告を行います。すなわち自分は多くの苦しみを受け排斥されて殺される、とイエスは言ったのです。これは到底ペトロには理解できない言葉でした。そこでペトロは、それはとんでもないということで、イエスをお諌めしたのです。そのペトロを叱ってイエスは言いました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8・27-35)
ペトロの信じる神はどんなおかただったのでしょうか。神は全知全能であり、神には苦しみも悲しむも痛みのないはずだと考えていたのでしょう。神から遣わされた神の子メシアが多くの苦しみを受け排斥され殺される、などということはペトロの念頭にはありませんでした。
しかし聖書は苦しみ悶える神を伝えています。実にキリスト教は十字架の宗教です。十字架の信仰がわたしたちの信仰の中心にあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)「独り子を与える」とはイエスが十字架にかかったことを意味しています。十字架のイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15・34)と叫んで息を引き取りました。そのとき天の父はいかなる思いで愛する独り子の最後を見守ったのでしょうか。まさに「断腸の思い」ではなかったでしょうか。
わたしたちの信じる神は「苦しみを受けない神」ではなく、苦しみ痛める神です。エレミヤ書の中には次のような箇所があります。「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」 (エレミヤ31・20) 以前の文語訳では、20節後半の部分は次にようになっていました。「我彼に向かいて語るごとに彼を念わざるを得ず。是をもてわが腸(はらわた)彼のために痛む、我必ず彼を恤(あわれ)むべし。」「胸は高鳴り」は、「わが腸(はらわた)彼のために痛む」と訳されています。まさに断腸の思いであると言っています。
このような神の思いは次のホセアの箇所からも知ることができます。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
(ホセア11・8-9) ここでは、あたかも神自身が自問自答し身悶えしているかのようです。神はイスラエルの背信と裏切りに傷つき、憤っています。他方、イスラエルを思う憐れみの心で胸がいっぱいです。罪は罪です。しかし愛する民を赦したい。神の心には怒りと憐れみの葛藤があります。このような神の姿をわたしたちはしっかりと受け止めなければなりません。結局、神の怒りは憐れみに負けてしまいます。神のゆるす愛が罰する神の正義に勝利します。その結果が、イエスの受肉と十字架となりました。
さて、今日の福音でイエスは言っています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
わたしたちは、平穏で安楽な栄活を享受したい。十字架を担うということはそのような欲求に逆らうことです。しかし、わたしたちはそのような古い人間の生き方から抜けださなければならない。
キリスト教は十字架の宗教です。わたしたちキリストの弟子は、このイエスの言葉に従うよう、呼びかけられています。
『日々自分の十字架を背負ってイエスに従う』と言うとわたしは次の「マザーテレサの祈り」を思い出します。

イエスよ、わたしを解放してください。
評価されたいという思いから、愛されたいという思いから、
重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、
好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、
認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、
非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。

マザーテレサにとって十字架を担うとはこの祈りのように生きることであったのか、と思います。
今日堅信の秘跡を受ける皆さんは、それぞれ、自分にとって十字架とは何か、ということを、この機会によく考えてみてください。「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。一生かかって取り組むべき重大な課題です。このイエスの呼びかけによく応えることができますよう、祈りましょう。


メッセージの記録一覧に戻る
CGI-design