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平和旬間ミサ・茨城地区



2015年8月16日 年間第20主日 平和旬間・茨城地区


カトリック鹿島教会

第一朗読 箴言9・1-6
第二朗読 エフェソ5・15-20
福音朗読 ヨハネ6・51-58


主イエスは、山上の説教で言われました。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9 )
今年の平和旬間は昨日で終了しましたが、今日8月16日、鹿島教会でさいたま教区の平和旬間のミサをささげ、また平和についての教えを学ぶひと時をすごしたいと思います。
人間は弱いもの、そして、罪深いものです。人間の歴史は、争いと戦争の歴史です。神の望まれる平和を実現するためには、主イエスの教えに従わなければならないのです。主の霊の導きに従わなければなりません。このような視点のもとにきょうの福音を読んでまいりましょう。
今日のヨハネの福音の6章の初めの部分で、五つのパンの奇跡の話が告げられました。その後でヨハネ福音書の内容は、地上の命を養う食べ物であるパンではなく、永遠の命を与える食べ物の話へと推移します。
イエスは、自分こそ、永遠の命のパンである、と宣言します。この言葉を聞いた人々は、戸惑い、驚き、躓(つまず)きました。
さらにイエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ6・29)と言われました。またさらに言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしのまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6・56)
これを聞いた人々の驚きは頂点に達し、「もう聞いてはおられない」という衝撃となったのでした。
「ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた」(ヨハネ6・52)とあります。「肉を食べ、血を飲む」という表現に人々は躓いたのです。
人々は、イエスの言葉の意味を、文字通り「イエスという人間の血肉を食する」と言う意味にしかとれませんでした。
しかし、イエスは霊的な世界を話したのです。イエスが言ったのは永遠の命を与える霊のことでした。「命を与えるの“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6・63)
ヨハネの福音の中心の教えは「永遠の命」ということです。
イエスは言っています。「信じるものは永遠の命を得ている。」(ヨハネ6・47)
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)
「永遠の命」とはイエスを信じる者に与えられる神の命です。
したがって、ヨハネ6章の最も重要な問いかけは「あなたはイエスを信じるか」ということでした。
ミサのなかで聖体拝領が行われます。聖体を受けるものは、このイエスの言葉を心から信じるものでなければなりません。「イエスを信じます」と信仰宣言し、「キリストの体」という司祭の言葉に「アーメン」と答えるものだけが聖体をうけることができます。
イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストの心を自分の心として歩むこと、イエス・キリストと一致して生きようと努める、ということに他なりません。
ミサのときに司祭はパンとぶどう酒を聖別すると、パンはキリストの御体に、ぶどう酒は御血にかわります。その場合、化学変化が起こってパンはもうパンではなく、ぶどう酒はもうぶどう酒ではなくなる、というわけではありません。キリストの言葉に従って、キリストの霊が働き、復活したキリストがパンとぶどう酒の形態において、そこにキリストが現存されるのです。
聖体拝領するとは、主イエス・キリストへの信仰を告白することであり、キリストと一致することですから、聖体拝領前に自分の信仰と生活をよく調べ確かめなければなりません。

さて、今日は平和旬間の行事としてこのミサがささげられています。イエスは、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9)と言われました。
「神の子」と呼ばれるためにわたしたちはどうしなければならないのでしょうか。きょうは日本カトリック司教団の教えを中心に、皆さんとご一緒に、平和の学習をしたいと思います。

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