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朝霞教会司牧訪問



2015年7月19日 年間第16主日


カトリック朝霞教会

第一朗読 エレミヤ23・1-6
第二朗読 エフェソ2・13-18
福音朗読 マルコ6・30-34

きょうの聖書朗読、福音朗読から「牧者の務め」について思うことをお話します。
今日の福音朗読で次の部分を取り上げましょう。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6・34)
「深く憐れみ」はイエスを理解するために非常に重要な鍵になる言葉(キーワード)です。
この言葉はルカ15章の「放蕩息子の話」にも出てきます。
「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15・20)
また有名な「善いサマリア人の話」の中にも出てきます。「その人を見て憐れに思い」(ルカ10・33)「深く憐れみ」と訳されている言葉ギリシャ語原語は「内臓、はらわた」を意味する言葉から派生しています。日本語でも「肝に沁みる」などという言い方があります。ここでは、イエスが人々の状態を見て非常に気の毒に感じ、はらわたもちぎれる思いがし、旨がつぶれるような思いを抱き、彼らのために命すらささげようとする、そのよう思い、気持ちになった、ということが表現されています。このイエスの心は父である神の心です。

第一朗読は、エレミヤ書から取られ、ここで言う牧者とは歴代の王たちを指しています。多くの王は神の御心に適牧者ではなかった。たとえばイスラエルの王ナダブについて列王記は「彼は主の目に悪とされることを行って・・」(列王上15・26)とあります。善政を行った場合は、「主の目に適う正しいことを行った」と記述されている。

第二朗読は、エフェソ書です。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります・二つにものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはお出でになり、遠く離れていたあなたがたも、近くにいる人々にも、平和を告げ知らせました。」(エフェソ2・14-17)
ご存知のようにイエスは山上の説教での
ましの言葉です。イエスはまた言われました。
 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5・9) 実に牧者は平和の福音を述べ伝え、平和を実現する、という使命を受けています。 
日本の司教たちは戦後70周年に当たり、メッセージ「平和を実現する人は幸い―いまこそ武力によらない平和を」を発表しています。(2015年2月25日)
 第二次世界大戦の悲惨な体験から、二度と戦争を起こさないという決心のもと、わたしたちは戦争を放棄し、紛争解決のためには武力を行使しないという決意を全世界に向かって表明してこの70年を歩んできたのです。

 キリスト者は、悪に対するのに悪をもって対抗するのではなく、悪に対して善をもって対抗し、悪に対して善によって打ち負かすよう、求められています。この非暴力の精神は日本国憲法第9条によって具現しています。国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、また戦力を保持しない事をわたしたち日本国民は決意したのであります。9条のおかげでわたしたち日本国民は、この70年、戦争によって誰も殺さず、戦争によって誰も殺されずに済んできたのです。
わたしたちは同じ神の子として、ともに祈り、ともに学びます。そのためにもまずわたしたちは異文化の人々、ことなる文化を生きる人々が互いに「触れ合い、助け合い、理解し合う」(「1995年の司教団メッセージ『平和への決意』より」よう努めなければなりません。

平和のために働くことは、日常の祈りと行いの積み重ねです。キリストに倣い、互いに痛みと苦しみを担い合い、喜びと希望を分かち合って歩んでまいりましょう。それがキリスト者の平和への道であると信じます。

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