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司牧センター研修会



2015年5月12日 司牧センター研修会


那須ヨゼフの家にて

第一朗読 使徒言行録19.22〜34
福音朗読 ヨハネ16.5〜11

「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。…わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16.6〜7)
 イエスが弟子のもとから去るのは弟子たちにとって、かえって良い事でした。それは「弁護者」と呼ばれる聖霊が弟子たちに与えられるからです。次の主日は昇天の祭日、そして、その次の主日は聖霊降臨の祭日です。イエスは弟子たちに聖霊を派遣し、イエスの教えを正しく理解し、イエスの教えを実行する力を与えます。
 5月10日、復活祭第6主日の福音でイエスは言われました。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。…わたしがあなたかたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15.9〜13)
父がどのようにイエスを愛したのか、考えてみます。
イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊がイエスの上に降り、「イエスは父の愛する子、心に遣うものである」という声が天から聞こえてきたのです。(マタイ3.17、マルコ1.11参照)
 父である神は、御子との聖霊の交わりの中で、イエスにすべてを与え尽くしました。イエスは父の霊である聖霊を受け、聖霊の導きに従って全生涯を父に奉げました。
「神は御心のままに満ちあふれるものを余すところなく、御子の内に宿らせ、その十字架の血において平和を打ち立てて、…万物をただ御子によって、御自分と和解させられ」(コロサイ1・19〜20)たのです。
御父のわたしたちへの愛、それは御子イエスによって現された愛です。御父はイエスによって、イエスを通してわたしたちを救うと望まれました。
実に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3.16)のです。
イエスは十字架の上で、父に向って叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ115・34、マタイ27・46)そのイエスの声を、父である神はどんな思いでお聞きになったでしょうか。
父である神の愛とは、愛する独り子イエスが十字架の上で惨たらしく殺されていくのを忍ぶ、という愛でした。神の愛、それは愛する者のために大きな痛みを抱く愛、愛する者のために苦しむ愛です。
 昨夜のテレビ番組、キリスト教徒と仏教を比較しながら紹介する「ぶっちゃけ寺」という番組を皆で観ました。そのなかで「愛」と言う言葉をどのように説明するだろうか、と考えながら、興味深く観ていました。しかし、結局番組の場面には説明が出て来なかったようで、残念でした。
「愛」とは人を大切にすること、人のために苦しみを忍ぶこと、人のために苦しむことです。
 実はこの五月の連休、故郷の家で過しました。この家には両親の思い出が一杯残っています。色々の場面での父・母のことばが思い出されます。思えば父母の生涯は子どものために苦しむという生涯でした。父・母の苦しみの原因、その大きな原因はこのわたくしがつくった原因です。わたくしが司祭の道を歩んだために受けなければならなかった苦しみでした。 
誰かがわたしたちのために苦しんでくれたことを知るとき、わたしたちは愛を学びます。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4.30)
 父である神は御子イエス・キリストと通して、愛ということを教えてくださいました。この愛をもっと深く悟り、この愛をより多くの人に伝えて行かなければならないと思います。

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