カトリックさいたま教区
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教区司祭1月の命日記念ミサ



2017年1月13日  命日記念ミサ


第一朗読 ヘブライ4・1-5、11
福音朗読 マルコ 2・1-12

皆さん、本日は3人の神父様の命日の記念ミサをお献げいたします。
パウロ内野作蔵神父様は、第2代の教区長でいらっしゃった方です。1960年に帰天されました。パウロ小倉三郎神父様は浦和教区司祭で秩父教会を長く担当されました。2012年に亡くなられました。オードリック・フィッシェル神父様は、フランシスコ会の神父様で本庄教会を長い間担当され、2014年に帰天されました。それぞれさいたま教区のために甚大な功績を残してくださった司祭方であります。永久の安息を心からお祈り申し上げましょう。
 今日の福音について少しご一緒に考えてみたいと思います。カファルナウムというところが舞台であります。ガリラヤ湖のほとりにあるまちでイエスの活動の舞台となりました。
この出来事が起こった場所はとある一軒の家(この家はペトロの家ではないかという説があります)です。人がたくさん集まってきました。それはイエスの評判を聞いたからです。どういう評判かというと、おそらく病気や障害を癒す方であるという評判です。この評判が広まったから、なんとかしていただけるのではないかと思って集まってきました。あまりにも多くの人が集まったので、イエスに近寄ることが出来ないのです。そこで、この4人の人が考えて、なんとその中風(「ちゅうぶ」あるいは「ちゅうふ」)の人を屋根の上まで運びました。どのような家なのか、ものの本によると屋根というのは平たんで、板と泥でできていて、はしごがかかっていて誰でも簡単に登れるようになっていたそうであります。どれぐらいの広さの家でしょうかね。天井からいきなり中風の人が釣り降ろされたというので、もうびっくり仰天でしょうが、その有様を想像してみますとおもしろいです。
イエスはその人たちの信仰をみて、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。これが大問題になったわけですね。
「子よ」というのはその中風の人です。「あなたの罪は赦される」「私は罪びとですから罪を赦して下さい」と言って来たならば、「あなたの罪は赦される」と言われるのに、「連結」がある、つながりがあるのですけれども、「罪が赦される」というとちょっと話が食い違うわけなのです。
「罪は赦される。」そこでなぜ罪が出てきたのかなあ。そこでそれを聞いた人々、特に律法学者、イエスに敵対した人ですが、彼らは大いにつまずいたのです。そして、こういう人を生かしてはおけません。冒涜の罪を犯していると考えて、そして、なんとかしてイエスを亡き者にしようと考えるようになった。そのイエスを抹殺しようと考える動機になったのは、この事件をはじめ、いろんな機会にイエスが冒涜の罪を犯したと考えたからであります。
私たちは、罪の赦しということにそれほどの違和感はありません。そういう信仰を持っておりますが、この時代、イエスの時代、人間であるナザレのイエスが罪の赦しを宣言するということは大変な冒涜の罪でありました。罪を赦すことのできるのは神様だけである。人間であるイエスは、そのようなことを言うことはできるはずはないのに堂々と罪の赦しを宣言したのです。

ちょうど私たちはいつくしみの特別聖年を終えたところであります。神はいつくしみ深い、神は罪びとをお赦しになる。安心して神のもとに赴き、神に赦しを願うならば、神は罪を赦して下さるのです。
罪を赦すというのはどういうことでしょうかね。私たちが人を赦すという時に、赦したならば赦したようにしなければならないけれど、なかなかそうはできていません。他方、赦されている自分をどれだけ自覚し、感謝しているでしょうか?
それはともかく、神が私たちを赦して下さるという時に何を意味しているのでしょうか? イエスは十字架におかかりになって、私たちの罪のあがないをして下さったと私たちは信じています。罪を赦すということは、罪の結果を引き受けるということが含まれていると思います。
さて、もう一つのイエスの言葉、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
この言葉もいろいろ考えさせられる内容だと思います。あなたの罪は赦されるというのは口で言うのは簡単ですね。私でも、というか司祭は赦しの秘跡の時にそう言いますけれども、皆さんだって、言うだけは言えますよ。そう言ったから赦されたということをどうやって知ることができるでしょうか?言うだけは簡単に言えます。「起きて床を担いで歩け」と言うのも言うだけは言えますけれども、実際そうなるかどうかは目で見ていてわかりますから、言っても何も起こらなければ、うそをついたということになりますね。
イエスの場合は起きて床を担いで歩けとおっしゃるとすぐその通りになったわけです。なったと書いてあるわけです。でも罪を赦すということと、癒すということと、どっちが難しいでしょうかね。私たちの周りには病気の人や怪我をする人がたくさんいますけれども、病気をなおす、怪我をなおすということは決してやさしいことではない。しかしなおすことはできる。でもその罪を赦すということは全く別な問題であります。人と人との間の問題であれば、ある人が自分に対して、罪を犯したならばゆるすことはできる。できるんですけれどもなかなか我々は心が狭いためにゆるしきっていないという事実もあります。
まして罪というものは神様に向かって犯すものですから、神様が赦してくれないと私たちはどうにもならない。でもその神は罪を赦して下さる神であるということをイエス・キリストは示して下さった。

主の祈りで毎日祈っています。私たちの罪をお赦し下さい。私たちも人をゆるします、と。神は私たちの罪を赦して下さる。だから、私たちも他の人の罪を赦さなければなりません。赦すということは大変なことでありまして、毎日、毎日、考えて見ると、今日あの人がああゆうこと言ってむかつくなあ。と、この気持ちをもって寝たくないなあ、と、思ったりします。朝起きるとまた思い出してしまいます。心の動きというものは、私たちはどうにもならないですね。でも、その動きにとらわれないように今日を生きたいのです。今日、気にくわない人に会わなければならないとします。気にくわないからお前のこと気にくわないよ、ということは言わないし、そういう態度をとらないで、イエス様の教えに従って広い心でその人のためになることをしたい・・できますようにと祈る。祈ることはできます。意志の力ですから、しかし好きになれないですね。それはしょうがない。なれないのですから。好きになれなくとも大丈夫です。そのような私たちを、神は受け入れ赦してくださいます。

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