カトリックさいたま教区
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教区管理者 APOSTOLIC ADMINISTRATOR



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司祭・助祭の集い・教区管理者 講話



2016年12月 5日 「司祭・助祭の集い」講話


――入門講座のための信徒協力者の養成について――

【教会の使命】
さいたま教区において、入門講座を行う際に、信徒の方にどのように協力していただくか、関わっていただくかと、いう課題をご一緒に考え、そして、それぞれの状況に応じて実現するようにしていきたいと思います。
そもそもというところから話しますと、私たち教会は神の民、司教、司祭だけでなく、イエス・キリストから呼びかけを受けて応え、応えようとしている全ての神の民が私たちの教会でございます。
 「全世界に行って、福音をのべ伝えなさい。全ての人に教えをのべ伝えなさい。私の弟子を作りなさい」という主イエス・キリストのご命令を受けた人とその協力者が、全世界でわたしたちの教会を建設しております。わたしたち司教、司祭、あるいは修道者(奉献生活者)と信徒の方は同じ神の民ではありますが、異なる召命を受けております。全く同じことをする必要はないのであります。しかし、福音をのべ伝える、あるいはこの世界をより神のみ心にかなった世界にするために努力をするという使命は、全ての人に共通しているものであります。そういう前提のもとに、入門講座あるいは信仰講座という勉強の機会に、司祭がどなたかに協力していただき、より多くの人に福音をのべ伝え、そして教えるという、そういう役割を果たしていかなければならないと思います。

【伝道士】
かつて伝道士とか、あるいはカテキスタと呼ばれる人々がおりました。大活躍した時代もございます。宣教が再開されて、もう百五十何年でしょうか。日本に来られた福音宣教者、宣教師は、日本人の力を借りて、その役割を果たしました。文化や言語が全く異なる場所に来られたので、日本人の手を借りて宣教するということで、伝道士の方には、教会の中に住んでいただき、司祭の活動一切を補助するという役割を果たして頂いたと思います。そういう伝道士の家から司祭の召命を受けた方が多数おられます。さらに時代が下がってくると、カテキスタと言われる人たちがいました。この人たちは、カテキズムを教え、カテケージスをする準備をし、勉強し、そして司祭とともに、あるいは司祭に代わって要理を伝え、教えを説き、聖書を説明するという役割を担い、さいたま教区でも多くの方々がカテキスタとして活躍されました。男子、女子、それぞれおられたと思います。

【信徒の使命】
第二バチカン公会議になり、信徒の役割、使命にさらなる光が当てられて、そして、あるいは、信徒の時代などと言われるようになりました。信徒の方は家庭、社会、あるいは学校という与えられた場所において、イエス・キリストを証しし、のべ伝え、あるいは必要な時にはみ言葉をもって説明する、そういう使命であると思います。ですから、小教区で入門講座、あるいは信仰講座を担当するということは、信徒の方の第一の役割ではないと思います。しかしながら、現在の我々の状況、司祭の減少、高齢化あるいはいろいろな妨げがあって、司祭として充分に活動できないという状況のなかで、特に、さいたま教区では一人でいくつもの信仰共同体を担当しておられる神父様がいて、日曜日には何箇所でもミサを捧げなければならないという場合に、そのような司祭を助ける信徒が必要となります。その場合、大切なことは司祭とその司祭を助ける信徒との間の緊密な連絡、協力が必要であると思います。それはそれぞれの教会によって事情が違いますので、段階的にその共同体が、あるいはその司祭がふさわしいと考えるようなやり方で、信徒の協力をお願いするということがよろしいのではないかと思うわけであります。
 
【同伴者】
ある場合は同伴者といいましょうか。司祭と信徒の一対一の関係、あるいは司祭と求道者だけの勉強会は悪いわけじゃありませんが、誰かお世話する人がいて、教会生活の手ほどきをする。教会というのはどういう風になっているか、あるいはミサのご案内ということも大切なことであって、初めての人にはミサというものはよくわからない、非常に不思議な世界であると思います。付き添って、同伴して、教会のあり方を説明する人が必要ではないかと思います。誰でもできるわけですけれども、特にその準備をして、そういう心構えをつくって、求道者のお世話をするという体制をもっと強化する必要があるのではないかなと思います。そして入門講座、信仰講座という場合に、司祭と一緒に、あるいは司祭から委託されて部分的に、あるいは場合によっては司祭がいない、時間が割けないという場合には、司祭の了解のもとに、あるいは司祭の委託のもとに話をするという場合もあるし、場合によっては望ましい。神父さんは忙しいですから、特に主日、ミサの前後は集中的にいろいろな用がございますので、初めて教会に来た方、あるいは、とにかく教会という所に来てみたという方に丁寧に応対をすることができないわけであります。

【開かれた教会づくり】
そこで考えてみますと、はっきりとキリスト教の勉強がしたい、聖書を読みたい、あるいは洗礼を受けたいという意志をもっている人と、そこまではいかないが、キリスト教を知りたいと、あるいは何かあるのではないかと思ってやってきたという人とがいます。これは不適切かもしれないが、教会の中に入りたいという人と、入ろうかどうかわからないけれどもちょっと覗いてみたいという人といますので、その境目がわかりませんが、どんな人にもあなたの場所があるということを表し、伝えることが必要ではないでしょうか。
 かつて日本の司教協議会は、いわゆる福音宣教推進全国会議というものを開催しました。1987年に行ないましたので、ずいぶん昔になりました。30年経つのですけれども、あの時は大変な勢いがありました。「開かれた教会づくり」というスローガンでありました。「聞き、吸い上げ、活かす」という方針を掲げていました。人々の関心、ニーズ、必要に応え、特に弱い立場に置かれている人、心病んでいる人、不安や孤独に苦しんでいる人、そういう人の憩い、安らぎ、励ましとなる、そういう共同体でありたいということを目標に掲げました。京都で87年11月23日頃、ちょうど勤労感謝の日、京都では紅葉が綺麗な季節でそこに集まりました。

【教会訪問者受け入れ】
ですから、わたしたち司祭は直接できませんので、信徒の方にお願いして、教会に来た方をあたたかく迎えるような体制を作りたいと思うのであります。それは、常に心掛けて、さらに力を入れて、多くの人との接点を明確にしたい、というように考えるわけであります。そして、キリスト教を知りたいという方には、誰でも自分はどうしてキリスト者になったかということを話すことはできます。どのようにして、わたしはクリスチャンになったのかです。ところが、いざ話そうとすると、なかなかはっきりと言えないというのです。他のキリスト教会では、そうするようにとの勧めもあるし、そういう訓練も受けているのでしょうか、そうできる方が多いような気がしますが、わたしたちは全部、司祭、修道者から受けたという意識で、あまり自分で信仰を表す、伝えるという習慣が、そういう意欲がない。これは残念なことだと思います。ぜひ、そうできるように教会共同体を励まし、育てたいと思うのであります。
 
【クリスマスと聖体拝領】
それと関連しまして、ちょっと脇道にそれるのですが、まもなくクリスマスであります。日本ではクリスマスだけは、大賑わいでありまして、たくさんの方がミサに来てくださるのですね。これは千載一遇のチャンスであって。なんか、クリスマスは教会へ、初詣は神社へと、そういう分類になっているわけですけれども、動機は何であれ教会に来ます。日本の社会では、かつてのようなクリスマスの華やかな賑わいというものはなくなったというように言っている人もいますけれども、クリスマスには来ますよね。その時に、「どういう風に我々の宗教を説明するか。」「どういうプレゼンテーションをするか。」が問われています。
 それから聖体拝領というのが、場合によってはひと悶着ですね。信者でない方も祝福が受けられます、とアナウンスがありますね。それでよくわからないけれども、ゾロゾロと皆が前に出てきます。そうするとご聖体を受けるということが、どういう意味かわからないですね。わかるはずがないです。一回来ただけでわかるはずがないですけれども、我々はなんとなく動作でわかるのですね。なんか変だけれども、前の人がそのようにしてるから、そうしようと。それで出てきて、手を出して、その手の様子が違うのです。日本では右利きの人の場合は、右手を下に置いて、左手を上に上げて、尊いものをいただく時の日本の文化に従った拝領の仕方を標準としているわけです。
ご聖体をいただけませんが、祝福を受けられますという言葉が何を意味しているか、なかなかわからない。それは、誰かが一緒にそばにいて説明するあるいは動作で指し示さないといけないのでしょうけれども、聖体拝領する人としない人が同数、あるいはしない人のほうが多い場合もあるのですね。
 わたくしが主任司祭をしていた教会では、お父さんが洗礼受けたのですけれども、こんな有難いものを独り占めしては申し訳ないと思って、こっそり持ち帰って、家族を集めて、司祭の役割をして、それを分けていたという・・なんか素晴らしいけれども、うーん、ちょっと、それならその家族全員信者になっていただくといいということで、結果的にそうなったのですけれども。考えてみると聖体拝領というのは、一体何であるのかと。この機会に深く黙想したいものであります。
 
【聖体拝領の作法】
日本では、手で聖体を受けるという特別な拝領の仕方を教皇庁に申請して、日本の文化における適用、アダプテーション(適応)として認めていただいたと思うんですけれども。ところが、これは日本だけの特例かと思ったら、色んな国でも段々そうなってる。
昔は全世界みんな、信徒がご聖体に触れるということは、ありえないという考えだったんですね。ですから今でも、口で受けることを強く希望する人がいます。それを拒んではいけないという教皇庁の指導でありますので、拒まないのですけれども、中には跪いていないと受けたくないという人もいて、行列が一旦そこで途絶える。ぱっとそこで跪かれちゃうと。まわりはどうであろうと、その人は跪いて受けるということに懸命でありますので、ご聖体というのは自分の満足、自分のイエスとの一致だけじゃなくて、共同体の中の自分ということを強く考えるときでありますので、自分さえ良ければ・・・、そこまで思ってはいないのでしょうけれども、どうしたものかと思いながら、中には立ちなさいと強く命令して、立たないとあげないという司祭がいて、これまたひと悶着で、すぐに訴えるということになります。
日本の司教協議会は、日本の教会における聖体拝領について何度も話し合い、そして司教協議会から文書を発表して、こうしますということを伝えたわけです。私たちも2、3年前に、その学習をしたと思います。立った姿勢で手の上に、うやうやしくご聖体を受けて、その場ですぐにご聖体を口に運んで拝領していただくと。これは持って帰ったりとか、まして他の人にあげたりとか、それはまた話が全く別のことなんです。それに日本の文化では、人の口の中に他の人が物を入れるということは普段はないわけで、親が子どもに食べさせるとか、高齢者で介助が必要な人の口に食べ物を入れるっていうことはあるんですけれども、限りなく尊いお方をいただくという時には、それにふさわしい動作があるわけですね。ところがご聖体については、あーんと口を開けて。それはかつては当たり前だったのかもしれませんが、この辺について、ちょっと共同体でも話し合っていただけたらと思います。
 とにかくクリスマスが来るということで、どういうようにアナウンスするかですね。私はこのことが色々気になるのですけれども、カトリックの洗礼を受けた人だけです、という言い方です。カトリック以外の洗礼を受けた人でカトリックになった人はどうなのか、そんな細かいことまで説明する余裕がない場面なのですけれども、どういう説明がいいのでしょうか。それに一度アナウンスしても、よく伝わらないしわからないですよね。ですから、やっぱりこの信徒の方がさりげなく、注意して、見ていて、同伴するというか、案内するということが必要なんじゃないかなと思います。
 
【聖体と一つの問題】
それからもうもう一つ。わたしが色んな教会を訪問して感じている問題がありますが、初聖体ということを教会は大切にしていて、初聖体の思い出というのは大変大きな意味を持っているわけですが、子どもたちはお母さんと一緒に司祭のもとに出てきて、お母さんは拝領する、子どもはできないので、早くしたいと。そういう場面を我々は経験しているわけですが、そういう時にご聖体でない、ご聖体に似た何かをあげるところがあるのですよね。これはやめていただきたいのです。これ、ご聖体とご聖体でないお菓子のようなものとの区別を、子どもたちにはっきりとさせなければならないのです。シミュレーションsimulationということでしょうか、これはよろしくないと思います。子どもにご聖体に対する尊敬、憧れ、これは本当に聖なるものであるということを教える、体験させる非常に貴重な機会であるのに、欲しがっているので、その代わりのものを上げますというようなことで対応するというは、よろしくないと思います。あまり見ませんけど、たまにあるのですよ。是非それはやめるようにしていただきたいと思います。
 
【信徒の信仰講座の協力者】
話を戻しまして、とにかく全ての信徒は福音宣教するように招かれている。そして、それはそれぞれの立場、それぞれの召命に応じて行うべきことであって、自分の仕事や家庭を放棄して、教会に入り浸りになり、あるいは朝から晩まで駆けずり回ることがふさわしい信徒のあり方ではないことは言うまでもないことです。この地上にあって、この世の務めをきちんと果たしながら、その務めを通して、神の国の到来を告げ知らせるという役割を信徒の方は持っているわけであります。そこで、小教区で、入門講座、信仰講座、あるいは教会の案内をしていただけるような信徒の方を準備するという、何かの講座、あるいは何かを準備してほしいと、そういうふうに考えているわけでございます。その場合、司牧者、教会の主任司祭、助任司祭あるいは協力者とその方がよく連絡を取れるようでないと、教会共同体の中に、緊張とか、あるいは分裂を生じさせることになるのです。もちろん神父様方はよくご存じのことだと思いますが、よく意思の疎通ができる、そういう方にお願いしていただきたいと思います。なお、そういうように司祭から依頼される信徒でなくとも、一般的にもっと教理や聖書、あるいはその他の典礼のことなども勉強したいという方が多数おられますので、それはそれぞれの小教区で勉強会を開催していただければよろしいのですけれども、教会の規模にもよりますし、司祭は忙しいですので、さらに教区レベルで、あるいは県ごとに信仰を深める講座などを開設することが望ましいと思います。そのような試みも何度もなされたのですけれども、これを機会にもう一度考えていただきたいと思います。
 
【回勅などの学習】
次々と新しい状況に合わせた教え、回勅等が出されます。「ラウダート・シ」という環境問題に関する教皇様の教えが出版され、日本語に翻訳されました。この勉強もぜひしていただきたいと思うわけです。
 それから今度、日本の司教協議会は「いのちへのまなざし」という共同教書、全司教による教えの本を改定して、出版いたします。これは2000年に出したものですが、この十数年に次々と新しい課題が生じ、新しい事態が生まれておりますので、それによりよく応答するために、内容を大幅に改定いたしました。来週の臨時総会で内容の最後の点検を行い、内容を確定させることになっています。その中には新しい色んな問題ですね。自殺、自死、臓器移植、出生前診断、生まれる前に胎児の様子を診断して悪い遺伝子があれば生まない、とかいうようなことが行われているわけですけれども、そういうことに対する教会の考え方ですね。もちろん、人口妊娠、中絶、あるいは人口受精、体外受精とか、前になかった新しい問題があるわけで、そういうこととか、環境問題、原子力発電のことなど、次々と難しい問題がありますので、そういうことについて我々はどう答えたらよいのかということを解説する教えでございますので、それを勉強したいと思います。

【キリスト教受け入れの難しさ】
そして、さらにキリスト教というのは、日本の社会ではどういう宗教として受け取られているだろうかと。教会に来て勉強したい人がいます。それから勉強したいとまでは思わないが、教会に触れたいという人がいます。自分の精神上の問題あるいは興味から、教会に接触する人がいます。さらに教会の外にいて、我々の言動や我々の教理をよくわからないままに批判している人がたくさんいるわけで、どういう点が受け入れがたいのか、どういう点がつまずきなのか、どういう点が不可解なのか、そういうことについて教会は二千年のあいだ応えてきたはずですけども、この日本において、日本の文化の中で、キリスト教というのはどういう点で受け入れが難しいのかということですね。福音と文化、あるいはキリスト教と日本社会というような難しい課題、これをそれぞれの国で、さらにそれぞれの教区で、この問題を正面から見据える必要があるのではないでしょうか。それからほんとうに素朴な疑問。それはどんな宗教にもあるのですけれども。人は死んだらどうなるんでしょうか。神様が作った世界にどうしてこういう悪いことがあるのでしょうか。どうしてキリスト教は十字架という恐ろしい姿をみんなに見せるのでしょうか。
昨日、谷国定神父様から少し説明があったのですが、そういう素朴な疑問に対して、それは信じればいいのだという答えではなく、真正面から受け止めて、丁寧に回答する必要があるではないでしょうか。

【素朴な質問】
東日本大震災、2011年3月11日でしたよね。東日本大震災は、色んな宗教の宗教者にある意味で一つの大きな問いかけをしました。どうしてこの世界にこのような酷い惨い不条理なことが起こるのだろうかという問いを、全ての宗教は突き付けられたと言ってもいいのではないかと思います。日本に住んでいたカトリック信者の少女、エレナさん。どういう経緯か、この少女の質問がイタリアのテレビ番組に登場したのですね。誰かの仲介で。少女の手紙は「日本に住む子どもたちは、どうしてこんな怖い思いをしなければならないのでしょう。教皇様、神様に聞いてください」というような質問だったのですけれども、それが世界中から集められた、何百だか何千だかの質問の中でトップ、第一位の質問として取り上げられたんですね。ベネディクト16世教皇はこの質問に誠意をもって答えました。わたしはそのことだけでも感謝して、教皇様にお礼状を出しました。教皇様は、少女に答えたんですね、テレビの番組を通して。その文章は日本でも報道されております。バカなこと聞くんじゃないよというような回答ではなくて、真摯にお答えになったわけですね。態度が非常に大切ではないかなと思うわけでございます。その他、神を信じる人はどうして戦争ばかりするのですか、とか色々な素朴な疑問があるわけでして、そういうことにわたしたちは誠実に、真摯に応えてきただろうかと。
 日本という国は治安がいいです。生活水準も高いですよね。わけがわからない宗教に、宗教というものに対してマイナスのイメージがあって、サリン事件というのがあって、宗教に対する警戒心があります。カトリックにはそれほどないと思いますが、あえて洗礼を受けて、教会に加入するという人はほんとうに少ないわけで、それでも求道者がいるというのは大変なことで、奇跡的といっていいかと思います。

【信仰の真生な証し】
日本では信者にならなくとも、別にそうしなくても、何ら生活に支障はないし、仕事にも支障はない、そういう状況ですよね。キリシタンの時代はそうでなかったかもしれない。国の有力者、大名等がキリシタンになって、その家来、その領民は殿様と同じ宗教になることが利益だったかもしれないけれども、今は全く違う状況であるわけです。そういう中でわたしたちは、信仰をのべ伝えるという使命に生涯をかけているという。これは素晴らしいことではないかと思うわけです。そして、ほんとうにその真正性というか、本物であるかどうかということが問われる。人々はわたしたちが何を信じ、何を言っているかということよりも、自分の言っていることをどのように生きているかということに敏感であるわけです。どのようにわたしたちは毎日を生きているか、口では綺麗なことを言っているけれども、生活はまるでなっていないのでは・・・。こういうことがあれば、人々にはつまずきになるのかなと思います。色々なことがあって、聖職者によるつまずき、セクシャル・
アビューズsexual abuseというような問題もあることはあります。そういうことに誠実に対応したい。教皇様は強く迫っているわけですね。そういうことに厳正に対処するようにと言っておられるわけです。わたしたちは弱い人間でありまして、過ちも犯しますが、他方、弱い人間、間違う人間をあたたかく包むイエス・キリストのメッセージ、いつくしみの神を表すということも、大切であるというわけであります。
 
【新福音化委員会】
そういう中で、話を戻しまして、信仰の入門講座を手伝う、あるいは協力する信徒の養成、さらには、キリスト教の教えに対する無理解や誤解をどのようにわたしたちが受け止めて、それを解く努力をするかという課題。それは信仰生涯養成委員会の課題というよりも、特別な委員会の課題だと思います。教皇庁では新福音化評議会というのがあって、各国で同じ組織を作るようにという要望がありますので、司教協議会では新福音化委員会があります。さいたま教区でも、それを改めて設置したいと思います。この件は、また後日、皆様に話したいと思っております。(大司教 ペトロ 岡田武夫)







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