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一粒の麦感謝ミサ・少年少女のいつくしみの特別聖年



2016年10月15日 大宮教会 少年少女たちのいつくしみの特別聖年ミサ ・一粒の麦 感謝ミサ


第一朗読 サムエル上3:1〜10
福音朗読 ルカ15:1-7

 皆さん、今日はいつくしみの特別聖年にあたり、召命について一緒に学び、そして祈りたいと思います。召命は神からの召し出しであります。神様が一人ひとりをお呼びになるという意味でございます。狭い意味で言えば司祭、あるいは修道者、奉献生活者へ呼び出されるという意味でありますが、誰にでも神様は声をかけて、召し出しをなさるのであります。
 今日読まれた第一朗読は、サムエルの召命の話です。サムエル、旧約聖書で非常に重要な役割を果たしている人物。サムエル記という長い物語があることを、皆さんご存知ですね。このサムエルがどのようにして、召し出しをいただいたのかという話の一部が、今日紹介されています。
 サムエルの母、ハンナという名前の方ですが、なかなか子供に恵まれなかった。大変悩み、苦しんで、神様にどうか子供をお授けくださいとお願いをした。そして、ぶどう酒とか、強い飲み物を口にしないという犠牲を献げる。日本でも何々断ちとかって、お茶断ちとかいいますが、何々はいただきません、それだけではなくて、もし子供を授けていただいたら、その子の頭に剃刀を当てませんと誓いました。そうすると伸び放題ということになるのですが、そういう約束をした。ナジル人という言葉が出てきます。ナジル人にします、という意味だったのだろうと思います。そして神様が授けてくださった子供がサムエル。乳離れした頃、サムエルを連れて神殿に赴き、サムエルを神殿にあずける、献げる、そういう話ですね。この母親の強い思いが、わたしたちの心に伝わってきます。それくらい一生懸命、子供のために祈らなければならないのですね。
 さて、この少年サムエルが神様からの呼びかけを聞いた。それは神様からの声であった。そこでサムエルはエリという祭司の指導を受けて、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と答えた。祈りということを表す大切な教えであります。神様どうぞ話してください。わたしは聞いています。この聞いています、聞きますという態度がなければ、神様がおっしゃっても、わたしたちの心には入らない。わたしたちは神様がおっしゃることを聞こうという、心の準備をしているでしょうか。ほかのことで心がザワザワし、神様がおっしゃることよりも、ほかのことで心がいっぱいという状態のほうが多いかもしれないと思います。
 さて、今日の福音はルカの15章。特別聖年のシンボルマークになっている、この牧者が一匹の羊を担いでいる絵ですね。わたしたちが今、過ごしている特別聖年の意味を表しています。たくさんの羊がいるから、一匹くらいどうなってもたいしたことないということではない。この一匹がいないと心配でたまらない。九十九匹を置いて(あとどうしたのか、ちゃんと誰かに任せたのか、わかりませんが。)この一匹が大事だということが言いたいことであります。そして、見つかったら大喜びで担いで帰ってくる。担がなくったって歩かせればいいのにね。なんで担ぐのでしょうね。
 話は飛びますが、ちゃんとお話しの準備はしなければいけないので、長くなるといけないのですけれども。三つのことを短くいうつもりです。
 一つは、皆さんユニークという言葉は御存じですよね。ユニークな人だ、とか言いますけど。恐縮ですが、これはラテン語でunus、一つのいう意味からきています。一つ。唯一。独自。普通、わたしたちが使う時、ユニークな人というとほめてるのでしょうか。ちょっと遠回しに変わった人とかいう意味なのか。でも本当の意味は、その人は一人しかいない、その人だけもっている素晴らしさがあります、という意味ですね。比べて、試験で点数がいくらかという意味ではなく、その人がその人であることが素晴らしいという意味であります。
 二つめの話。話は飛びますが、わたくし中学の時に色んな本を読みました。小説で『路傍の石』というのがあります。作者は山本有三という方で、たしか栃木の方なのです。主人公は吾一という人。“ご”は“吾(われ)”という字ですね。それに“一”。われはひとり、という。わたしという人間は一人しかいないという意味で、胸をはってしっかり生きなさいと先生が諭すという場面があったと記憶しているのです。
 三つ目の話。お釈迦様の話。お釈迦様が生まれて、すぐに立ち上がって、七歩歩いて、右手を上に上げ、左手を下に下ろして、「天上天下唯我独尊」と言ったという言い伝えがある。天上天下、わたしだけ尊い、という風に普通解釈されています。しかし、たくさん人がいても、俺だけが一番偉いのだというように解釈するのは間違いです。この広い世界にわたしという人間は一人しかいない。この一人しかいない命は、本当に尊いものだと。みんな、それぞれ、天上天下唯我独尊。わたしも、そう。あなたも、一人しかいない、尊い存在なのですよ。ほかの人と比べて、どっちが尊いとかいうことはない。みな尊い。違いがあることは素晴らしいことなのだ、という意味なのだと思います。
 さて、いつくしみの特別聖年。一人ひとりは、神様が限りなくいつくしみ深く思う、そういう存在なのだよということを深く思い、そして自分がそうならば隣の誰々さんも、その隣の誰々さんも同じように尊いのだと。これは二人で見合っていては、なかなか難しい。人間というのは、相手の良くない点はすぐわかるので、それで腹が立ったりします。しかし良い点を思い、自分とは違った素晴らしさを認める。それはいわば神様じゃないけれども神様になった気分で、本当にお互いに大切にしあうことができますようにと、祈り務めるのが特別聖年であると思います。

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