カトリックさいたま教区
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茨城家族の日



2016年9月25日 家族の日 年間第26主日ミサ


イエズス・マリアの聖心会 友部修道院
第一朗読 アモス 6・1a、4〜7
第二朗読 テモテ 6・11〜16
福音朗読 ルカ16・19〜31

今日、年間第26主日の福音は、ただ今お聞きになられましたように、ある金持ちとラザロという貧しい人の物語であります。ある金持ちと書かれていまして名前が記されておりません。この金持ちは毎日ぜいたくにそして、自分の思い通りに楽しく暮らしておりました。その金持ちの門前にラザロという貧しい人がおりましたが、彼はその存在にも注意を払わなかったようであります。この二人は間もなく亡くなりました。そして、状態が、地上の状態と比べて全く逆になりました。金持ちは陰府(よみ)に下され、陰府(よみ)からアブラハムの懐にいるラザロを見て、アブラハムに、どうか助けてくださいとお願いしたわけであります。そのときにアブラハムが言った言葉、すなわち「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、こちらからお前たちのほうへ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちのほうに越えてくることもできない。」
この淵があるということはどういう意味なのでしょうか?ちなみに英語のほうを見ますと、gulfと書いてあります。あまり普段見かけない言葉ですけども日本語で「淵」という言葉です。この話は死んだあとの状態を話しているようでありますが、もしかしたらこの地上で生きているわたしたちの間にあるすでに存在している問題かもしれません。
金持ちがいた。金持ちの名前はわからない。この金持ちはすぐそばにいる貧しい人、苦しんでいる人、虐げられている人のことに全く注意を払わない。この払わないという状態がこの淵ということかもしれません。淵というのはこの金持ちが自分でつくりだした状態であります。淵であるということがはっきりしたのは死んだ後かもしれませんが、実は生きている時に自分でつくってしまった大きな問題であります。これは金持ちのことでわたしたちには関係ないと言い切れるでしょうか?ここにはこの金持ちのような大金持ちはたぶんいないだろうと思いますが、しかし、程度の差はあるかもしれないけれども、わたしたちの間には金持ちとラザロという関係、二人の間に生じた関係つまり、淵というのをつくってしまっているのかもしれません。人と人との間だけでなく、国と国の間、民族と民族の間にもすでに生じている状態ではないでしょうか。
今日は家族の日です。家族の間にはこのような淵はないはずでありますが、もしかしたら気がつかないうちにそういう淵を作ってしまっているかもしれないと今日、ちょっとだけ反省してみたらよいのかな?と思います。このわたし、岡田ですが、わたしにも家族がおりました。今もおります。あまり家族のことを思わなかった、配慮しなかったと今つくづく後悔しております。自分で淵をつくってしまったのではないかと反省しております。
さて、わたしたちは今、教皇様のご意向によりまして、いつくしみの特別聖年を過ごしております。「天の御父がいつくしみ深いものであるようにあなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」と教皇様はわたしたちに強く勧めております。いつくしみ深くあることはどういうことでしょうか?それは、今日の福音が告げておりますように、自分のそばにいる人の苦しみや必要に心を配ることであります。更にマタイの福音の25章を思い出しますと、「このような最も小さいものの一人にしたのはわたしにしたことである」とイエスが言われたことに学びますと次のようなことになると思います。
いつくしみ深い行いというのは身体的な行いと精神的な行いに分けて説明されます。身体的というのは英語ではcorporal。精神的は日本語で精神的と言ってもspiritualというように書かれております。両者はお互いに通じ合うもの、実は同じものであると思います。
どういうことをしなさいと勧められているでしょうか。すごくわかりやすいことであります。飢えている人に食べ物を用意する。渇いている人に飲み物を、着るもののない人に衣服を、宿のない人に宿を提供すること。病気の人を訪問し慰める。受刑者を訪問する。こういうことがマタイの福音に書かれております。更に教皇様のお言葉によりますと、死者を埋葬する。これは今の日本の状況ではあまりなるほどという気がしませんが、そういうような状態が世界中にあったし、今も残っていると思います。
そして、精神的に人を助けるとはどういうことかというと、物事がわからない、いつも疑いを持っている人に助言する。過ちをおかしている人を戒める。嘆き悲しんでいる人を慰める。いろいろな侮辱をされてもゆるすこと。煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと。この辺は何か非常になるほどという気がしますね。
また、生者と死者のために神に祈る。これはわたしたちが毎日しておりますが、もっともっと意識的に人のために祈る。苦しんでいる人、悩んでいる人のために祈る。そして亡くなった人のために祈ること。これが大切なことだと思います。いつくしみの特別聖年は11月20日に終了いたしますが、特別に与えられたこの恵の時、わたしたちがもっと深く神のいつくしみを知り、そして実行できますよう祈りましょう。そして更に家族の日、自分の家族 一緒に住んでいる家族、あるいは別のところにおられる家族 あるいは亡くなった家族のことを思い起こしその人たちのためにお祈りを捧げるようにいたしましょう。


2016年09月18日 群馬東ブロック堅信式


9月18日 桐生教会 
群馬東ブロック 堅信式

第一朗読 アモス8・4-7
第二朗読 一テモテ2・1-8
福音朗読 ルカ16・1-13

 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」という本日の福音の結論をしっかりと心に刻みながら、これから堅信式を行いましょう。わたしたちがいただいている色々な地上の財産は、実は神様からお預かりしているのであります。神様のみ心に従って、神様のお望みになるように、仕えなければならないのであります。今日、堅信を受けられる皆さんは神様からいただいている色々な良いもの、健康とか知識とかさらに色々なものを受けているでしょうが、それは隣人のために、困っている人のために、苦しんでいる人のために役立てることが、神様のお望みであることを今日しっかりと心に刻んでいただきたいと思います。
 さて、今日読まれましたルカの福音であります。金持ちがいまして、金持ちは一人の管理人を雇っています。この金持ちは、不在地主という人で、つまり土地を持っているがその土地に住んでいない、管理を誰かに委託してその管理人に任せる、そういう場合を言っているのではないでしょうか。その管理人が主人の財産を無駄遣いしていると訴える人がいた。「無駄遣い」とはなにを意味しているのか。
 この話は正直いって、わかりにくい。主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた。こういう言葉が混乱させます。不正をしても、不正をやったことを褒めたという意味でしょうか。おそらく、不正といえば主人から見たら不正かもしれないけれども、全体から見れば必ずしも不正ではない。それどころか、むしろ褒められるべきことだ、という考えもございます。不在地主は金を使って、貧しい人から搾り取り、年貢を納めさせて、法外な利息を取り立てていた、という見方ですね。この不在地主の存在と不在地主のしていること自体は不正です。その不正を正すために、管理人は自分に任されている財産を貧しい人のために使っちゃったのではないか。そのように考える人もいます。
 あるいは主人の財産の管理を任せられているので、当然報酬がある。管理人が自分の分として取ることができる部分がある。その部分は自分の裁量で判断することができるのでありますから、その分、つまり自分が取る分は免除してあげるということもできる。それが不正と言われた。そういうような考えもありますね。今日の聖書と典礼の下のほうについている註を見ますと、そういう意味かもしれないという説が書いてあります。管理人は自分が取る分を免除して、あげたのだという考え方ですね。さらに、いや、そうではなく、主人のしていることは悪いことなので、貧しい人を救うためにぽんぽん大盤振る舞いしたのではないか、という考え方もあります。
 さて、いずれにせよ、わたしたちがこの地上で預かっている富というものは、ともかく意味で不正にまみれたものであるということと言えるかもしれません。問題は自分が預かっている富をどのように使って、神様を喜ばせるかということでございます。
 今日の第一朗読は、アモスの預言でありました。ここに書いてあることは、非常に酷いのであります。「弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう」というような言葉。人間を靴一足の値段で買い取ろうという非常に考えにくい、酷い事実が書いてあります。そういうことがあってはならないということを強調したのではないでしょうか。
 また第二朗読のテモテへの手紙では、すべての人の贖い主として御自身を捧げられた主イエス・キリストが述べられています。わたしたちの救い主、主イエス・キリストは御自分の全てをお捧げになった。それは、わたしたちを救うためであります。神は全ての人が救われて、真理を知ることを望んでおられます。そのために主イエス・キリストをお遣わしになりました。わたしたちはそのイエス・キリストと出会い、イエス・キリストの弟子となったのであります。ですから、イエス・キリストの生きたように、わたしたちも生きなければならない。そうできるようにと、聖霊がわたしたちの上に注がれます。堅信の秘跡というのは、洗礼を受けて神の子どもとなった人々が、聖霊降臨の時に弟子たちが受けた恵みと同じ恵みを受けて、イエス・キリストの弟子として歩むことができるようにする秘跡であります。
 どうか皆さん、今、自分たちが受けている素晴らしい賜物。それは健康であり、教育であり、その色々と素晴らしいものに恵まれている。それを他の人のために使うようにしていただきたいと思います。

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