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平和旬間・那須厳律シトー会ミサ



2016年8月14日 年間第20主日厳律シトー会(トラピスチヌ修道院)


2016年平和旬間栃木地区 

第一朗読 エレミヤ38・4-6,8-10
第二朗読 ヘブライ12・1-4
福音朗読 ルカ12・49-53

今日は、2016年の平和旬間中の主日をむかえておりますので、主日のミサを平和旬間のミサとしてお献げし、今読み上げられました、ルカの福音を読んでわたくしが思いますことを二三、申し上げたいと思います。
平和旬間ですから、今日は特に平和について学ぶ時であります。
今読まれました福音ではイエスは次のように言われました。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12・51)
わたしたちはイエスをキリストであると信じています。イエス・キリストを救い主と信じています。イエスはガリラヤのナザレというところの出身なので、ナザレのイエスと呼ばれています。
このナザレのイエスというのは、どんな人だったのでしょうか。イエスの出会った人々はその鮮烈な、強烈な印象を人々に伝えました。その結果が4つの福音書となって、残されております。わたしたちは毎日福音書を読み、ミサの中ではもちろん福音書が読まれております。そのイエスに出会った人たちが教会をつくり、そしてその教会が今日まで伝えられており、わたしたちはその教会のメンバーとなっております。
ナザレのイエスというのはどんな人だったのか。イエスの生き方を直接知るために福音書の記述が非常に重要であります。その福音書を読みますと、今日は特にこのルカ福音書を取り上げて、味わってみたいと思います。
「わたしが来たのはむしろ分裂をもたらすためだ」と、とれるこの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。わたくしたちは、特にこの東洋の文化においては、誰とでも平和に暮らしたい。対立はしたくない。相手の言うことやしていることに逆らったり、反対したりはしたくない。心の中では賛成でもないけれども、あえて違うとか、反対ですとか言わないようにしているのではないでしょうか。本当はそう思わないのだけれども、相手の言うことに違うとは言わないで過ごすということは、あまり気持ちの良いことではない。楽なことではないと思います。イエスという人はそういう人ではなかったようだと、ルカの福音書に限って読んでいますと、イエスはあえて相手が怒るようなことをしたり、言ったりしています。
例えば、安息日についての論争です。ユダヤ人の十の掟、十戒の中に(第4戒)安息日の掟があります。安息日には労働してはいけない、その安息日にイエスは会堂に入って、そして手の萎えた人を見て、あえてその場でその人を癒された。挑発的な態度をとった。そこで、そこにいた人たちは大変怒り狂ってイエスをなんとかしようと話し合ったと出ているわけであります。
また4つの福音書に共通して出てくる話ですが、神殿の境内に入って、そしてそこで商売をしている人々を追い出して、そこにでている屋台の店をひっくり返すというような乱暴なことをしている、いわゆる「イエスの宮潔め」という話であります。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われた。こんなこと言われたら当然怒ります。そこで祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀った、とあります。
さらに当時の民衆の宗教的な教師、先生であったファリサイ派の人々、あるいは律法学者といわれる人々を痛烈に非難する言葉を発しています。例えば、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。あるいは、人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。などと言いましたので、彼らは非常に怒りました。律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始めたと出ているのであります。
こういうような場面を思い起こしますと、イエスは言うべき時にははっきりと自分の思うところ、信ずるところを話されたのでありました。平和旬間に際して、このようなイエスの生き方を、わたしたちはどういうように受け取ったらよいのかと思うわけであります。
今日の福音ではよく読んでみると、わたしには受けねばならない洗礼がある。とも言っておられる。受けねばならない洗礼というのは、明らかに十字架のことだと思います。十字架に架けられる、ということをはっきり意識しておられたのです。
第二朗読ヘブライ書は、イエスは「信仰の創始者また完成者である」と述べています。イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。このようにヘブライ書は述べております。
このように考えてみますと、平和を実現すること、平和のために働くということは、このイエスの生き方に倣うことと切り離すことができないのだ、としますと、わたしたちは自分が排斥される、非難されること、あるいは憎しみを受けることを避けてはならないということになります。もちろんこちらに原因があって、嫌がられるのは論外なことですが、わたしたち自身が本当にイエス・キリストに倣うことによって、人々から排斥されるならば、それこそわたしたちキリスト者のあるべき姿になるのだろう、と思います。人間としてはそういうのはイヤだなと思わないわけではないですが、イエス・キリストの弟子になっているからには、わたしたちが自分の生涯の中ではっきりとイエス・キリストの生き方を宣言するのでなければならないのではないのだろうと思います。
 2016年の平和旬間にあたり、本当の平和の実現のために働くということは、誰とでも妥協して生きる、ということではないということを、あらためて肝に銘じたいと思います。



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