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鹿沼教会司牧訪問



2016年7月10日、年間第15主日


第一朗読 申命記30・10-14
第二朗読 コロサイ1・15-20
福音朗読 ルカ10・25-37

皆さん、おはようございます。
わたくしは24年前の11月、92年の11月にこの教会を訪問したようです。したという記録と写真が残っております。それからいろいろなことがあって、今皆さんを拝見すると、フィリピンから来た方やヴェトナムから来た方もたくさんおられます。わたしたちの教会は非常に国際的な多国籍の教会となっています。お互いにそれぞれの違いを認めて大切にしながら、イエズス様のお望みになる教会、いつくしみ深い人々の教会として、成長するようご一緒にお祈りをし、そして努力をいたしましょう。
今日読まれた福音と聖書について少し分かち合いをしたいと思います。今、矢吹助祭が読んだ福音は、有名な「よいサマリア人」の話であります。追剥に襲われて、半殺しの目にあっていた人を見た、通りがかりのサマリア人。サマリア人というのは、ユダヤ人と仲が悪かった。そのサマリア人が「その人を見て、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した。」(10・33-34)とあります。ほかの人、その半殺しにあった人を見ても、他の人は知らぬふりをして通り過ぎてしまったが、このサマリア人は憐れに思って、このような人を助ける行為をしたのであります。
この《憐れに思い》という言葉が、今日の福音の教えの中心にあります。そして皆さんご存知のように、フランシスコ教皇様のご意向によって、世界中でいつくしみの特別聖年をわたしたちは祝っています。「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い、あわれみ深いものでありなさい」と主イエスが言われました。いつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということをわたしたちは特にこの一年よく学び、そして実行するようにいたしましょう。
今日の福音に出てくる《憐れに思い》という言葉ですけれども、福音書はギリシャ語で書かれています。そのギリシャ語の原文は最近有名になりつつある言葉ですけれども、「スプラングニゾマイ」というのですね。「スプラングニゾマイ」。これは内臓、はらわたとかからきている言葉を動詞にしたもので、はらわたがゆさぶられる。日本語でははらわたがゆさぶられるという言い方はあまりない。はらわたが煮えくり返るというのは言うが、それは怒ってる時の表現です。胸がつぶれる思いとか言いますね、日本語の大和言葉の表現では。ここでは人の苦しみ、悲しみを見て体で感じてしまう。頭の問題ではなくて、心、体で人の苦しみ、悲しみに深く共感する、一緒に悲しみ、苦しみを覚えるという意味だそうです。いつくしみの特別聖年にあたって、このいつくしみ深い、あるいはあわれみ深いということを学ぶようにと教皇様は言っておられる。そもそも人は人の苦しみや悲しみに対して、共感し、そしてその人たちを助けよう、何かできることをしようという心を持っているのであります。そういう心があるけれども、何かの事情でその心の声が鈍くなったり、あるいは聞こえなくなったりしているのかもしれない。
昔、高校生の時ですけれども、中国の偉い人で孟子という人がいたそうで、孔子、孟子、荀子という偉い人がいたんだけれども、孟子さんが言った教え、それは人には人の苦しみを見過ごしにはできない、人のために思わず良いことをしようとする、そういう心が備わっているんですという教えでした。「惻隠の情」。
惻隠というとちょっとわからないかもしれないけれど、惻隠の情という、あるいは惻隠の心があると、そういう教えでありました。
今日の聖書の福音の教え、良いサマリア人が強盗に襲われ、追剥に襲われた人を見て、憐れに思ったということと良く似ている教えだと思います。人間の本性は本来良いものか、悪いものか、この問題はずっと論じられてきた。人間は本来良いものだという人もいれば、悪いものだという人もいる。あるいは本来どちらでもないのだという人もいる。性善説とか、性悪説とか、わたしたちは聞きましたよね。キリスト教ではどうなんだろうか。難しいですけれども、旧約聖書の最初にある創世記の1章では、神様が全てのものをお造りになった次第が述べられていて、最後に人間を造った。そして人間を見て、極めて良いとおっしゃったのですね。我々は極めて良いものなんですよ。その割にはですね、いろいろ人間は悪いことをしていますね。どう説明したら良いのだろうか。これは悩むわけです。わたしが悩むのは勝手ですけども、世界中の人、偉い人がどう説明したらよいか、という問題にぶつかりました。難しいことは置いておいて、聖書によれば、神は人間を良いもの、極めてと付いているのですが、極めて良いものとしてお造りになった。その極めて良いものが、その良さを発揮できていない。元々良い、良いけれどもどうしてか、その良さが出てこない場合がある。でも、だいたいにおいて我々は良いことを知り、良いことを行っているんですね。悪いことばかり見たらキリがないですけれども、人間は本来良いものである。人の苦しみに同情する、人を助けるものなんですね。ただ自分のことも大事なので、ついしそびれてしまう。あるいは自分自身の強い思い、こうしたい、あるいはあの人が邪魔だとかいう思いも出てくる。良い思いと悪い思いの両方が、わたしたちの心の中にはあるのではないでしょうか。
今日の第一朗読を思い出すと、神様の戒めと掟を守ることは難しくないと言っている。いや、難しいとわたしは感じますけれども、難しくないんだよと。神様の教えはどっか遠い所にある、外にあるものではない。あなたの心の中にあるんだよと、自分の中にあるんだよと、そう教えていますね。自分の中にあることに気がつきさえすれば大丈夫ですと、簡単に言うとそういうことを言っているのかなと思います。
また第二朗読のコロサイ書という聖書の朗読でありました。どういう教えであったかと言うと、イエス・キリストは見えない神の見える姿。万物は御子によって、御子のために造られた。神様は目に見えません。しかしイエス・キリストは目に見える人間でした。そこでいつくしみの特別聖年のお祈りというものをもう一度思い出す。「主イエス・キリスト。あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。」と教皇フランシスコが言っている。イエス・キリストは見えない神の見えるみ顔であります。そのイエス・キリストは地上を去る時に、弟子たちに聖霊を注いで、そして聖霊の働きでご自分のように生きられるようにしてくださった。わたしたちは弱い人間です。罪深い人間と言ってもよい。しかしイエス・キリストはご自分の霊、聖霊を送って、聖霊の働きで、イエス・キリストと同じ働き、人々を助ける、自分のことを後回しにして人の苦しみのために働く、その人のところに走り寄ることができる、本来良い人間の働きをすることができるようにしてくださった。そういうように教えています。「あなたがたは神御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(1:22)と書いてある。
今日、皆さんどうしてここに来ましたか。ここに来て何か良いことがあるんですよね。ここに来て別に一銭の得にもならないが、もっと良いこと、神様の恵みを受けることができる。皆さんの心の中に、神様から恵みを受けたい、ミサに与りたい、イエス・キリストのお話しを聞きたい、そういう良い心があるのでここに来ていらっしゃる。ですから、皆さんはすでに聖なる者とされているのであります。

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