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北浦和教会堅信式



6月12日 北浦和教会 Sermon for Confirmation at Kitaurawa Church


年間第11主日
第一朗読 サムエル下12・7-10、13
第二朗読 ガリラヤ2・16、19-21
福音朗読 ルカ 7・36 〜 8・3

今日は年間第11主日です。ミサの中で堅信式が行われます。
今読みましたルカの福音の内容は、「いつくしみの特別聖年」の精神をよく表しており、また堅信を受ける皆さまのために大変有益な話であると思います。
話の内容は、今皆さんがお聞きになったような展開であります。この出来事が目の前で起こったとしたら、皆さんはどの様に感じ、どのような思いを抱かれることでありましょうか。非常に劇的な鮮やかな場面の展開ではないかと思います。イエスが最後にこの女性に言われた言葉、それは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」であります。
この同じ言葉をわたしたちは今自分たちに向けて言われた言葉として受け止めることができるならば、なんと幸いなことでありましょう。
今日はこのルカに書かれている通りの話を、実際に起こったこととして受け止めて、一緒に味わいたいと思います。
起こった場所はどこか書いてありませんが、イエスが活動していたガリラヤ地方の町、カファルナウムであるかもしれません。シモンというファリサイ派の人の家で起こった出来事です。シモンはイエスを食事に招きました。食事の仕方は今のわたくしどもと違って、身体を横にして、横たわって、右手を使って、給仕を受けるというような仕方であったそうです。
すでにイエスの評判はガリラヤ地方あるいはその外にまで広く伝わっていたのでしょう。この町に罪深い女と言われる女性がいました。「罪深い」とはどういう意味でありましょうか。多くの人は、娼婦であると考えました。彼女は罪深い日々を過ごしていたと周りの人は思っておりました。本人も自分の職業を毎日行っていることが神の前に罪深いことだという自覚をもっていたと思います。そして、どこかでイエスのことを聞いた、イエスの話を聞いた、あるいはイエスが人々に話していた時に群衆の中の一人であったのかもしれません。あきらかにこの時点で、この女性はイエスを知っておりました。イエスが説いた神の愛を聞いておりました。
わたくしどもは「神のいつくしみの特別聖年」を祝っております。
「天の父はいつくしみ深いものであるように、あなたがたもあわれみ深い、いつくしみ深いものでありなさい」とイエスは教えられました。
天の父は目に見えませんが、目に見える神となられた方がナザレのイエスであります。「わたしを見る者は天の父を見るのである」とイエスはフィリップに言っております。そのイエスの言葉と行いの評判は非常に高く、そこでこの女性は、「自分は罪深いけれども、この自分も神のいつくしみによって、赦され、癒され、救われうるのだ」という信仰、期待、あるいは希望を持つに至ったと思われます。
イエスがファリサイ人のシモンの家に行って食事をなさるということを、そういう情報を入手した彼女は、シモンの家に紛れ込んで、イエスのそばに近寄り、そして今読まれたような一コマ、驚くような特別な異常な動作に打って出たのであります。
涙を流し、その涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛で足をぬぐい、足に接吻し、香油を塗る。こういうことを人が見ている前でするというのは、大変意外なことであります。ですから、人々は大変びっくりしました。しかしイエスはその女性がそうさせるままにしていた、この女性の行為を受け入れていたのであります。
食事の主催者であるファリサイ派のシモンは、とてもこの情景を黙って見過ごすことはできなかった。でも言葉には出さず、心の中で「なんていうことだ、この罪深い女にこんな破廉恥なことをさせるこの人は、どうして預言者といえるだろうか」と思いました。このシモンの心をイエスはすぐに察知したのだと思われます。
わたしの考えでは、この女性はイエスのことをすでに知っていた。しかし、直接お会いしたことはないのでしょう。イエスはいつくしみ深い神の愛を説いていた。「自分は後ろ指をさされるような、そういう、恥ずかしい職業をしている女であり、みんなから爪はじきにされている、そんな自分を神様はいつくしんでくださる、赦してくださる」、そういう思いを抱いていたと思います。だから思い切って、このような人を驚かせるような動作に打って出ることができた。
人は愛したから赦されるのでしょうか。神を愛したから赦されるのでしょうか。赦されたから神を愛するのでしょうか。あるいは両方混じっているのでしょうか。
今日の聖書の箇所を改めて調べてみますと、解釈は両方に分かれているのです。
一つは「この女性がこんなに感謝している、そしてイエスはあなたの罪は赦されたと宣言している。これは神を愛したから赦された」という考えです。
もう一つは、この女性は神のいつくしみを信じ、「自分のようなものでも、愛され、受け入れられ、赦されるのだ」と信じ、感謝して、そのことを動作でイエスに表現した。その時点ですでに彼女は深い感謝の念を持っていた。その感謝がこのような異様な動作に導いたのだろうと思われます。ですから、すでにこの女性はその時点で罪を赦されていた。神への愛を表明したのはすでに自分が赦されているということを信じたので、感謝のしるしとしてこのような動作をしたのではないかと考えられる。実に、「多く赦されたものは、多く愛す。少なく赦されたものは、少なめにしか愛さない」のであります。
パウロは自分の大きな罪が赦されていると信じていたのであります。
神は、わたしたちが神を愛さなければ、愛してくれないのではないです。わたしたちは神を愛することは知らない、あるいはできないという者でした。しかし、「ヨハネの手紙」(一)で述べられていますように、わたしたちが先に神を愛したのではなく、神が先にわたしたちを愛してくれた。そこでわたしたちは愛を知ったのです。人は、愛されて初めて愛ということを知るのです。愛を体験して、その愛を他の人に伝え、また神に感謝することができるようになるのであります。
いま、いつくしみの特別聖年を祝っています。主イエスに出会って神のいつくしみに触れた人々、マグダラのマリア、取税人のザアカイ、その他多くの人々、そしてこの罪の女、この人々は、神が自分を愛し、赦し、そしてかけがえのない存在として認めてくださっているということを、イエスを通して知ることができた。その感謝を多くの人々に伝える者となり、そして、その人々が教会を作り、わたしたちの教会のいわば起こりとなったのであります。
今日堅信を受けられる皆さんは、聖霊の7つの賜物を受けます。そして、神はいつくしみ深い方であることをしみじみと受け取り直し、神のいつくしみを人々に現し、伝えるものとして、日々聖霊の恵みを豊かにすることができますよう、そして一人で祈るだけでなく、同じ神を信じる兄弟姉妹、キリスト者の友達と一緒に祈ることにより、より深く神のいつくしみを知り、そして神のいつくしみを伝えるものとなるように努めていただきたいと思います。



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