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司牧センター研修会



2016年5月10日 司牧センター研修会 


第一朗読 使徒言行録 20・17-27
福音 ヨハネ17・1-11a

本日のミサを5月7日に帰天なさったトマス須賀澤神父様の永遠の平安のために、そして合わせて、亡くなったわたしたちの家族友人の永遠の平安のために捧げます。

今年、わたしたちは「いつくしみの特別聖年」を過ごしています。
イエス・キリストは、目に見えない神の、目にみえる神のみ顔であります。
ヨハネの福音がフィリッポという弟子の話を伝えています。フィリッポはイエスに願いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」イエスの答えは次のようでした。イエスは「フィリッポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・」とイエスは諭したのです。(ヨハネ14・8-8)

今日読まれた福音は、イエスの弟子たちへの告別の時と言えます。イエスは、わたしたちが与る「永遠の命」とは、「唯一のまことの神である父である神と、父がお遣わしになったイエス・キリストを知ることである」と述べています。すなわち、今日のヨハネの福音は、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と断言しています。(ヨハネ17・3)まさにここに福音の神髄のエッセンスがあります。この重要な言葉、「永遠の命」「イエスを知る」という言葉の意味を、神のいつくしみの聖年にあたり、しみじみと深く味わってみたいと思います。

 教皇フランシスコは、わたしたちに「特別聖年の祈り」を下さいました。この祈りは、特別聖年の趣旨、福音の意味をよく表現しています。
イエス・キリストは、見えない神のみ顔です。地上のイエス・キリストに出会った人は神のいつくしみに触れました。
それは、十二弟子をはじめ、神の愛に触れたザアカイ、マグダラのマリア、十字架上で良い盗賊と言われた人たち、他に多数の人々です。ナザレのイエスに出会った人々は、神のいつくしみに触れたのです。彼らはさらに、イエスの死と復活、聖霊降臨の出来事に出会って、唯一の父である神とその独り子を知るという道を歩み、「永遠の命」、復活したイエスとの一致へと導かれたのでした。
わたしたちの教会はイエスによって聖霊降臨のときに、創設されました。教会は、イエスの教会設立の意向、目的、趣旨を全世界に宣べ伝えました。この働きが福音宣教です。この日本に、そして、このさいたま教区にも福音が伝えられました。
いま、弱い人間であるわたしたちの中からイエスの福音の光が現れ伝えられています。特別聖年に際してわたしたちは心から祈ります。
「これら仕える者に出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができるように。
どうか、教会が、できうる限り、見えない神の見える神のみ顔となりますように。」

 さいたま教区はいま司牧者の研修会をしています。様々な言語・文化を持つわたしたちが集まっていますのでお互いに文化の違いを感じています。自分の文化で当然と思っていることが他の文化を生きる人にはそうではありません。しかし、それは大した問題ではないのです。わたしたちが共通に分かち合うべき課題は、「いかにしてイエス・キリストが示してくださっている愛を生き伝えるのか、神のいつくしみを生きるのか」ということなのです。
 そこで、「神のいつくしみを生きる」ということについて、この機会に、少々自分の個人的な体験を申し上げることをおゆるしいただきたいと思います。
 わたくしは1991年9月に浦和の司教に就任しました。実は、その9ケ月前に、その年、1991年の元旦に父が亡くなったのです。故郷(千葉県市原市鶴舞)には年の離れたわたしの妹と弟が残されました。その時になって始めてわたしは自分の責任、家族への責任を感じ、さらにその8年後には、二人の母も亡くなったので、頻繁に帰省するようになりました。
その後いろいろなことがありましたが、先日、5月1日、復活節第6主日、わたしのふるさとの教会である五井教会でこの妹が洗礼を受けました。市原市にある修道院のシスターがよくお世話くださり、洗礼に導いてくださったのです。
このかたは大変素晴らしい福音宣教者の修道女です。兄として本当に感謝のほかありません。妹は軽い精神障がいの人ですが、シシターは、忍耐深く、そしていつくしみ深く、彼女を導いてくださいました。神のいつくしみは、(わたくしを通してというよりも)このシスターと五井教会の皆さんを通して現れ伝えられたのです。洗礼式は五井の神父さんが司式しましたがわたしも立ち合い、一緒にミサをささげました。
わたくしが司祭への道を歩んだために、両親と家族は多大な犠牲を強いられことになりました。わたくしも、自分の召命を理由にして、あえて家族の苦しみから目を背けていたと思います。面倒なこと、煩わしいことから逃げていました。自分が司祭、司教である、ということを、その言い訳に、利用していたともいえます。実は、司祭であっても、いや、司祭だからこと、家族をもっと助けること、力になることができたのです。それなのに司祭であることを理由にして怠りの罪を犯していました。

神のいつくしみはどのように伝わるのでしょうか。
わたしの家族への神のいつくしみは、残念ながら、自分を通してではなく、故郷にあって、キリストに仕える人々によって現れ、伝えられたのでした。故郷の教会の、多く人々の支え、助け、祈りを通して、神のいつくしみが伝えられ、彼女を教会の交わりへ、洗礼へと導いてくれたのです。とくに、その一人のシスターの働きでイエス・キリストを知る、という恵みが彼女に伝えられたのです。
 神のいつくしみは、多くの人の支え、助け、祈りによって伝わっていくのです。
日本ではカトリック信徒は少数で、そのような状況で誰かが洗礼を受ける、ということは大変なことです。神様のいつくしみを伝え表していくことは素晴らしい事です。 確かに聖霊はわたしたちのなかで働いています。
神の恵に感謝しましょう。

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