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2018.9.2 (日) 足利教会創立135周年記念ミサ説教
年間第23主日、足利教会 第一朗読:申命記4.1-2、6-8 第二朗読:ヤコブ1.17-18、21b-22、27 福音朗読:マルコ7.1-8、14-15、21-23(そのとき、) (本文)ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。 『この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、 むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 (説教) 足利教会の皆さん、教会の創立135周年まことにおめでとうございます。135年の歩みを振り返り、また、今の教会の現実をよく見ながら、明日に向かって力強い歩みを始めましょう。そのために、わたしたちは、主イエス・キリストに聞き、イエス・キリストに倣う者となることができますよう努めたいと思います。 今日のマルコの福音を聞きますと、イエスはファリサイ派の人々と律法学者たちに向かって批難の言葉を発しています。大変痛烈な、耳に痛い言葉を、彼らに向けて言われました。それは、預言者イザヤの言葉を使ってのお話でありました。イザヤは何と言っているでしょうか。 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」 そう言われたのであります。口先だけは立派に恭しく振舞っているが、その心の中の状態は、言っていることと遠く離れているのだ。そのような人、言葉、行動等、その人の心の状態との間に大きな距離のある人を偽善者と呼ぶのであります。イエスは度々、ファリサイ派の人々、律法学者たちの偽善を攻撃しました。 人はうわべだけ正しく立派に振る舞うことができるかもしれないが、本当に心からそれを行うということはそう易しいことではありません。人間の心というものは実に複雑なもので、同じ人間の中に良い思いもあれば悪い思いもあります。自分の中に、悪い思い、よこしまな思いがあることを認めないで、全く自分にはそのような問題がないというようなふりをする人こそ偽善者と言われなければなりません。 今日の主イエスのお言葉の中に、人間の心から悪い思いが出てくるのだという教えがございます。悪い思い、それは何であるか。 「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」 たくさん並んでいますけど、どこか当てはまりますでしょうか。そういう悪い思いというものは人間の心の中にある。どうして人間はそういう思いを抱くようになってしまうのでしょうか。このイエスの言葉を聞いて、わたくしはいつも使徒パウロの教えを思い起こしてしまうのであります。パウロという人はもっともっとこの人間の心の問題というものを知り、そしてご自身悩んだ人ではなかったかなと思うのであります。確かに、人間の心には素晴らしい思いがあるんですね。人間は神の子であります。神の似姿であります。神様によって造られました。ですから、神様の心を映す、そのような良い、美しい、素晴らしい心が人間の中にあるのであって、だいたいわたしたちはそれほど素晴らしいと言われるほどのことはないにしても、良い心をもって毎日の生活をしております。パウロが言う良い心、それは聖霊がもたらす、聖霊の実りであります。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実」、そういうものは聖霊がわたしたちに与えてくださっているのであります。 他方、そのような聖霊の働きに背を向けてしまうとどうなるのかというと、これが非常にみっともないというか、みじめな状態になってしまう。しかし、困ったことに、そうであることに本人はあまり気づいていない。それが一番問題であるかもしれません。どういう問題に陥ってしまうかというと、ずいぶん悪いことがリストアップされております。それは「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い。まだある。ねたみ、泥酔、酒宴、その他、このたぐいのもの」です。これだけ言われちゃうと、わたしは全く無縁です、関係ありませんとは言えないので、ひょっとして、これもそうかな、あれもそうかな、なんか次々と該当するような気がしてしまいますが、どんな立派な人であっても、聖人であっても、自分の心に悪い思いが生まれる、兆すということは避けられないんですね。その場合、どうするかということが課題であり、その人にできることであって、悪いことが心に全く浮かんでこないようにはできないと思う。立派な聖人もそう言っていますから、正しいと思います。人間は悪い心にも襲われるというか、接してしまいます。しかしわたしたちは、その悪い心に負けて、悪い心の言うことに従ってはならない。わたしたちは、自分の中に、そのような聖霊の働きに背く悪い思い、パウロの言い方でいえば、肉の思いがある、肉の業があることを深く反省し、そして日々、霊の導きに従うように努めなければならないのであります。 今日は足利教会創立135年を祝う日であります。わたしたちのこの135年の歩み、それは日本の教会の歩みと重なるものでありまして、今日本の教会はどんな状況にあるのだろうか。更に大きなことを言えば、わたしたちの教会、カトリック教会はどうなんだろうか?本当に主イエスに忠実に従って歩んでいるのだろうか?その点を深く誠実に反省しなければならないと思うのであります。そして、多くの方々の努力、本当に貧しい誠実な僕たちが、小さな犠牲を主なる神様にお献さげして、いただいたことを心から感謝申し上げましょう。そして、わたしたちも、日々の小さな、小さな祈りと犠牲を献げながら、本当にわたしたちの中に聖霊が働いているのだということを周りの人が認めてくださるようにと願うのであります。 |
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