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2018.7.22 (日) 年間第16主日 高崎教会
第一朗読:エレミヤ23・1-6 第二朗読:エフェソ2・13-18 福音朗読:マルコ6・30-34 福音 (そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 説教 今日は年間第16主日で、今読まれた福音はマルコによる福音の6章です。特にわたしたちの心に響いた言葉は、どの言葉であると思いますと、わたくしにとっては最後の部分です。 「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような 有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 飼い主のいない羊。イスラエルの歴史をみると、羊飼いと羊のことが何度も出てきます。日本ではあまり羊というのは見ないので、たとえがよく分からないような気もしますけれども、羊がいて、羊飼いがいる。羊飼いがよく世話をしないと、羊は野獣に襲われて、命を落としたり、どこかに迷い出て行方不明になったりしてしまうという恐れがあります。 「深く憐れみ」という言葉は、心を痛める、胸がつかえるような思いがする、強く心配をする、とかいう意味であります。人間は心と体が一つでありますので、心で感じることは体で感じている。喜ぶ時は、天に昇るような気持ちになるといいます。楽しみ喜ぶ時は、体が感じている。 聖書の言葉では、〈深く憐み〉と訳されている言葉は内臓という言葉から来ているそうです。強く悲しんだり、心配したり、人の苦しみを自分の苦しみとして受け止めると、体がそのように反応してしまう、という意味であるそうです。福音書のいろいろな箇所で使われています。例えば、〈善いサマリア人〉の話を思い出しましょう。強盗に襲われて、半殺しにあっている人のそばを通りかかって、放っておけない、かわいそうに、憐れに思って、手当をしてあげた。自分のお金も出した。そういうサマリア人の話です。聖書にはいろんな箇所で、人の苦しみを見て、自分の苦しみのように感じて、思わず知らずにその人のためにできることをするという場面が、色々な箇所に出てきますが、イエス・キリストはそのような人であった。人が悲しんでいる、苦しんでいる時に、もう他のことは一切忘れて、その人のためにできることをします。そういう人であった。そういうイエスの心は、天の御父の心そのものであります。 旧約聖書を見ると、こういうような言葉が出てきます。神様は、イスラエルの人々が、自分の教えるようにはしないで、かえって反抗して、非常に危ない間違った道を歩み、そして、自分自身を危険にさらしている。もう、見て、大変心配し、さらに怒って、イスラエルの人々に預言者を派遣して、こうしてはいけないよ、こうしなさい、と何度も言うけれども、彼らは非常に頑なで、神様の言うこと、預言者の言うことを聞き入れない。 本来、神様の御心にしたがって、人々のために尽くすべき人がイスラエルの牧者です。牧者という言葉で現わされているのは、民の指導者。具体的に言えば、ユダヤ、イスラエルの王でたちです。王は、貧しい人、苦しんでいる人を保護したり、助けたりしなければならない。親のいない人、孤児、夫に死なれた女性である寡婦、それから、他の国から来た移住の民、さすらい人、そういうような人々は非常に弱い立場に置かれていた。そういう人を守り、助け、励ますのは、王の仕事でありました。神様の御心が行われるように、国を治めるのが王の仕事でした。ところが、大部分の王様はその務めを怠った。「主の目には悪とされることを行った」と聖書は告げています。聖書による勤務評定みたいです。だいたい落第でした。合格した王様はほとんどいなかった。そこで預言者が遣わされた。今日のエレミヤは、その一人。 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」。 エゼキエルという預言者もいました。 「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。お前たちは弱いものを 強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらない。」 自分だけいい思いをしている。牧者は羊を養うのが仕事。自分を養ってはいけない。でも、大体、自分がしたいようなことをし、自分の楽しみ、自分の権力を誇示する。俺は偉いのだということに熱心で、困っている人、弱い人、苦しんでいる人を思いやらなかった。ついに、神様は、そういう牧者は退けて、わたしが新しい牧者を送ると言われた。それが今日の朗読では、「ダビデのために正しい若枝を起こす」という表現で言われていると思う。 そして、最後に来られた方が、神のひとり子イエス・キリストであります。イエス・キリストはよい牧者。人々のために、自分のいのちを献げました。今日の第二朗読で言っていますが、このキリストこそ、わたしたちの平和です。(今日わたしたちが入祭の時にうたった通りです。) 悪い牧者は、自分の身に危険が及ぶと逃げてしまう。しかし、よい牧者は、自分のいのちを献げ、自分の羊のために生涯を献げます。イエス・キリストは、人々の間に平和を築くために、自分の身体を十字架の上で献げて、自分の血を流して、わたしたちに平和をもたらしてくださいました。実に、キリストは、わたしたちの平和です。そして、牧者のいないような状態である人々を見て、大変深く心を動かされ、色々教え、病める人を癒し、そして、迷っている人を導いた。教会は、そのようなイエスの務めをするように託されている。教会の指導者は、司教、司祭でありますが、さらに全員が自分の立場や役割に応じて、人々のために、よい牧者、人々の苦しみ、悲しみに深く共感し、その人とともに歩み、寄り添い、そして、その人のためにできる奉仕をするようにと、わたしたちは召されているのであります。 |
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