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2018.7.18 (水)  年間第15水曜日


浦和教会 12時

第一朗読:イザヤ10・5-7、13-16
福音朗読:マタイ11・25-27

福音
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 
説教
今日のアレルヤ唱は、「天と地の主である父はたたえられますように。あなたは神の国のことを小さい人々に現してくださった。」となっています。
今日の福音の言葉によると、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」であります。
両方とも同じことを述べていると思われます。これらのことというのは、何であろうかと考えれば、「神の国」のこと、「神の国の福音」を意味していると思います。
それから、そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
「幼子のような者」とは、アレルヤ唱では「小さい人々」と言い換えられています。「小さい人々」とはどういう人なのでしょうか。知恵ある者や賢い者と対比している、知恵のある者、賢い者とはどのような者か、と考えてみれば、これもおそらくですが、イエスと敵対したファリサイ人、律法学者、その他のユダヤの指導者を指していると思います。彼らは、自分で、知恵ある者、賢い者だと思い、人々に律法を教えていた。自負心を持っていた。自分こそ神様のことを分かっている者だ、教える者だと思っていた。それに反して、幼子のような者には、そういう自負心はない。素直に、謙遜に、イエスのおっしゃったこと、そして、イエスのなさったことを受け入れ、イエスを救い主、神様から遣わされた人として認めました。
 「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」とイエスが言っている。ですから、イエスの自覚とは、自分には天の父からすべてのことをゆだねられているのであるという自覚であります。そして、イエスの洗礼の時のことを思い起こしてみますと、イエスが洗礼を受けた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。」という声が天から聞こえてきたのでした。ですから、イエスは、天の御父のみこころに完全に適う者である、そして、すべてをゆだねられた者である、父は、イエスのことをすべてご存知である、そういう自覚を持っていた。それから、イエスの方は、天の父のことをよく知っている。
 ここで、それでは、この幼子のような者、小さい者はどうなのかというと、「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と言っています。ちょっと頭が混乱するかもしれないけれども、整理すると、御子イエスは天の御父のことを完全に知っている、それから、天の御父は、イエスのなさること、言われることに完全に満足している。この父と子は、心が一つであると言えます。人間と人間の関係を考えてみれば、とてもそこまではいかないのです。でも、お互いに理解し合い、そして信頼し合っているか、完全ではない。天の父とイエス・キリストの関係は、完全にお互いに理解し、お互いに信頼しているという関係である。
そして、イエスを受け入れる人は、謙遜に、単純にイエスを信じる人は、天の父を知る者となる。もちろん、イエスが天の父を知る程度には知ることができませんが、イエスが示した天の父を、彼らは信じた。信じたということは、天の父を知っていることになる。知恵ある者、賢い者はそれができなかったのだろうと思います。
父と子と聖霊の神様を信じる、わたしたちの信仰を深くしていただけるよう、聖霊に祈りましょう。

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