カトリックさいたま教区
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2018.4.1 (日)  復活の主日


川越教会

第一朗読:使徒言行録10・34a、37-43
第二朗読:一コリント5・6b-8
福音朗読:ヨハネ20・1-9

福音
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。


説教
 皆さん、主のご復活、おめでとうございます。今年は4月1日が復活祭。桜の花が満開か、もう散り始める頃でございます。
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」今日の福音朗読、この言葉から始まっています。ペトロを始めとする弟子たちは、イエスの受難、十字架の刑という恐ろしい出来事に直面し、パニックに陥って、皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。マグダラのマリアという女性がいました。彼女はイエスの母のマリア様と一緒に、十字架のもとに留まっていたのであります。男たちにとっては、もう全ては終わりという理解であったわけですが、このマグダラのマリアや他の女性にとってはそうではなかった。週の初めの日、土曜日が安息日でありますので、その安息日が終わって、次の日、今日でいう日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアはお墓に行ったのであります。男の人と女の人の違いもこの辺に表れているのでしょうか。
 イエスの葬られた墓は、空でありました。早速そのことをペトロに知らせに行った、このマグダラのマリアの体験と証言から、復活の信仰が生まれ、そして広がっていきました。最初の証言者はペトロではない、男性の弟子ではない、女性のマグダラのマリアであったという、この事実は、大変大切、あるいは興味深いことではなかったかと思います。
 第一朗読は使徒言行録で、ペトロはこの時になって、生まれ変わったように勇敢な人、信仰に満ちた人になっています。「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。」油注がれた者はメシア、ギリシャ語でキリストであります。この油注がれた者という言葉は、わたしたちキリスト者の起源となりました。わたしたちクリスチャン、キリスト者は、油注がれた者とされています。その油というのは、聖香油、聖なる香りの油でありまして、聖香油のミサにおいて、聖別されるのであります。
 さて、本日は、洗礼式が行われます。復活徹夜祭で洗礼式が行われることが多いのでありますが、川越教会では、本日洗礼式が行われるのでありまして、その時に、聖香油の塗油、油を塗ることが行われ、洗礼を受ける者は聖霊の恵み、聖霊の力を受けるのであります。洗礼、それから、堅信の秘跡のときに、油の塗油を受けます。白衣の授与、白い衣を授かるのでございます。その際、次のように言います。「あなたがたは新しい人となり、キリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」白い衣を受けるということは、キリスト者になる、キリストを着る者となるということを表しています。
 さらに復活のろうそくから、光を受ける式があります。この復活のろうそくに灯っている光、それはイエス・キリストの復活を表している。昨晩、復活徹夜祭の冒頭で行われた光の祭儀を思い起こすとよくわかりますが、最初に灯った復活の光をわたしたちは受け取って、まわりの人を照らし、その灯を隣りの人に伝え、そして復活の光が多くの人に伝わっていく。これはわたしたち教会のあり方を示しています。
 さらに、洗礼とはどういうことかということを、使徒パウロが説明しています。洗礼式というのは、今は頭のところに水をかける、いわば象徴的な式ですけれども、本来は全身を水の中に沈める式でありました。水の中に沈められるということは、今までのわたしはこれで終わりですと、古い自分は今日限り死んだ者になります、そして、水から引き上げられて、新しい人として生まれ変わります、生まれ変わるということを表していた。リセットというとちょっと不謹慎ですけれども、新しい人間として生まれ変わり、新しい人生を歩みます。人生には色々なことがあって、もうこれ以上やっていけないなと思うこともあるかもしれないが、いや大丈夫ですと新しい人に生まれ変わることができます。今までの古い自分、罪に捉えられている自分、色々なことにこだわって身動きできないような自分に終わりを告げて、そして解放されて、新しく生きていきます。そういうことを意味しているのが洗礼式でございます。
 今日、洗礼を受ける皆さん。洗礼によって受ける新しいいのちは、復活のいのちであり、そして復活のいのちは主イエス・キリストの復活のいのちであります。死からいのちへの過越しの信仰を生きながら、最終的にこの地上の生涯が終わる時に、わたしたちの過越しが完成するのであります。これからの人生を、人々にキリストの光を告げ知らせる者として生きることができますように。日々、古い人に死んで、新しい人になった者として歩むことができますよう、そのためにお祈りが大切であり、ミサ聖祭に与ることが非常に望ましい。望ましいというか必要であります。ぜひ洗礼を受けた時の気持ちを思い起こし、洗礼の意味を新たにして、日々を歩んでいただきたいと思います。


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