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2018.3.30  聖金曜日・主の受難 


浦和教会

第一朗読:イザヤ52・13〜53・12
第二朗読:ヘブライ4・14-16、5・7-9
受難の朗読:ヨハネ18・1〜19・42

説教
 今日、聖金曜日、復活祭があと二日と迫ってまいりました。聖金曜日には主の受難の記念を行います。読まれる福音は、今わたしたちが一緒に読んだわけですが、ヨハネの福音であります。
ご承知のように、わたしたちは4つの福音書を持っております。この4つ共、イエスの受難について、詳しく、長く、そして真に迫って描いています。イエスはどのように苦しんで、死んでいったのか、誰のために十字架につけられたのか。なぜイエスは苦しみを受けたのか。この問に応えることが、聖週間、そして復活祭の典礼であります。この一週間、わたしたちは、復活祭に向かって、毎日特別な気持ちで、祈り、ミサに与ってまいりました。そして、特に、イエスが復活する直前の出来事を、詳しく、わたしたちは追体験してきました。

 イエスをめぐって、色々な人が登場し、そして、その人たちの心の動きがわたしたちに伝わってきます。イエスの弟子たち、ペトロとイスカリオテのユダ、確か昨晩申し上げましたが、ユダという人がイエスを敵の手に売り渡したわけであります。どうしてそうしたのであろうか。ペトロについては、4つの福音書は詳しく述べているわけですね。色々な人が登場し、イエスが十字架にかけられ、そして十字架の上で死んでいくことに関わりを持っていた。改めて4つの福音書を読んでみると、本当に、非常に詳しい、長い朗読でありまして、教会は、どうしてこのように詳しい物語を後の時代に残したのだろうか。本当に重要な出来事であったに違いないと思う。言わば、この人々が持っている、人間の中にある問題、誰も逃れられないと思われる、罪、弱さ、ということが、この聖週間の典礼、特に、受難の朗読の中に表れていると思います。

 今日は、その中で、このピラトという人に焦点をあててみたらどうだろうかと思いました。ピラトはローマの総督であります。「ポンティオ・ピラトの元で十字架につけられ」と、キリスト教徒は信仰宣言で唱えている。彼は、そういうことになるとは、おそらく夢にも思わなかったでしょうが、世界中で、ピラトの名前が、半永久的に記憶なれているということであります。このピラトは、今の朗読の中にもありましたが、「わたしは、この男の中に何の罪も見出せない」、そう言っています。しかし、「あなたは皇帝の友でなくなるよ」と言われて、自分の身を守るためでしょうか、ついに、群衆の脅迫に負け、イエスを十字架につけるようにしてしまったわけであります。

 わたしたちは、この場面にいたとしたら、どのように思い、どんな態度を取ったでしょうか。実際、今の朗読の中で、わたしたちが受け持っている部分がある。これは二千年前に起こったことで、今のわたしたちには関係ないかというと、深い関係があるので、わたしたちは、典礼として、再現、追体験しているのだと思います。わたしたちの中にある問題、人間の悪という問題と、イエスの十字架という出来事が深い関係を持っているのではないかと、わたしたちは考えているわけであります。
 第一朗読はイザヤ書で、主の僕の詩でありました。あたかも、イエスの到来を預言しているかのような内容でありました。第二朗読はヘブライ人への手紙から採られていました。
「完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」。

 イエスは完全な従順を貫いたので、わたしたちにとって、わたしたち誰にとっても、永遠の救いの源となってくださったのであります。


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