カトリックさいたま教区
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2018.3.25  受難の主日ミサ 


浦和教会

第一朗読 イザヤ50.4-7
第二朗読 フィリピ2.6-11
福音朗読 マルコ15.1-39

説教
今日から聖なる一週間が始まります。今年の受難の主日の福音は、ただいま読み上げられましたように、マルコによる福音であります。イエスの受けた苦しみはどのようなものであったのでしょうか。わたしたちは毎年、特に聖なる一週間において、福音書の朗読を聞きながら、そのお苦しみを偲び、そして、わたしたちも少しでもその苦しみにあずかり、主の復活の喜びに達することができますよう願っています。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 
この言葉が、十字架の上のイエスの口から、人々の耳に届きました。人々は非常に強い印象を受けたので、もとの言葉の発音をそのまま福音書に残したのだと思われます。
「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味であるとマルコの福音が解説しています。そして、この言葉は、先ほどわたくしたちが唱えた答唱詩編の冒頭の言葉と同じであります。
「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのか。」
詩編22の言葉です。この言葉を口にのぼらせたイエスは、その時、どのような気持ちを持っておられたのでしょうか。

天の御父から派遣され、御父のみ心を行ってきたイエスは、人々から見捨てられ、そして嘲られ、みじめな最期を遂げようとしています。天の御父は、そのような自分をどのような心で見ているのだろうか。肉体的な苦しみはもちろんのことでありますが、人々から見捨てられ、嘲られ、侮られる苦しみ、それにもまして、天の御父からの何の応えも受けられない、父の沈黙、という苦しみがイエスを襲っていたのではないだろうか。それでもイエスは、最後まで、天の御父への信頼を保ち続け、そして、
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)
「成し遂げられた。」(ヨハネ19・30)
と言って、息を引き取られたのでありました。
わたしたちの日々の生活は、このイエスの受けたような苦しみとは程遠い、小さな、小さな悩み、苦しみから成り立っていると思いますが、その小さな、ささやかな悩みですら、平静に、謙遜に、従順に受け止めかねている自分があるのではないだろうか。この一週間、心静かに、聖週間の典礼にあずかりながら、わたしたちが主の過ぎ越しの神秘にあずかり、復活の喜びを共にすることができますよう、共にお祈りいたしましょう。

(信仰講座 神から見捨てられる苦しみ)

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