カトリックさいたま教区
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2017.9.10 (日)  茨城ブロック堅信式


水戸教会 
第一朗読 エゼキエル33.7〜9
第二朗読 ローマ13.8〜10
福音朗読 マタイ18.15〜20

皆さん、本日は、このあと堅信式が行われます。堅信を受けられる皆さん、そして今日このミサに参加されている皆さんに、わたしたちキリスト者、カトリック信者が日々行うべきことについて、改めて思いを新たにいたしましょう。

「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」とイエスは言われます。罪を犯すとはどういう場合を指しているのでしょうか?「兄弟があなたに」と言っていますので、自分だけに対する罪であるのか?罪とはどういう内容であるのか?この文章でははっきり読み取ることはできませんが、兄弟が何か間違いをしている、道から外れている場合に忠告しなさい、と言っています。この忠告という訳語を調べてみますと、原文から言って、ちょっと意味の範囲が広すぎるという人もいます。咎めるとか、あるいはあなたはこういう間違いを犯しているのだということを認めさせる、明らかにする、という意味であるという説明もあります。

こういうことはしばしば起こることです。誰にでもあることではないか。自分に対して、間違いをしている、あるいは自分を傷つけている場合にどうするか、なかなか微妙な難しい問題であります。人によって、どうしたらよいかということも違ってくるかもしれない。その人の罪の内容によっても違ってくるかもしれない。自分とその人の間だけのことであれば、二人で話がつく、解決できるかもしれない。しかし、多くの人に及んでいる難しい思い、ひどい躓きであることもある。それから、自分がどういう立場であるかによって、どうしたらよいかということも違ってくると思います。人を導いたり、教えたりする立場の人がいます。教会でいえば神父さん。そうしなきゃいけない。学校の先生とか、あるいはその他いろいろなお仕事、もちろん警察官もそうでしょうけれども、家庭でもお父さんはそうしなければいけないですね。お母さんの役割とお父さんの役割がある。お母さんは優しくいたわったり、慰めたり、助けたりするという役割でしょうが、お父さんのほうは何が正しいことであるか、何が間違っているか、人はどうしなければならないか、何をしてはいけないかということを、言葉と、そして行動で、身をもって示さねばならない。相手が自分の間違いを認めてくれれば、まずそれで成功なのですけれども、場合によってはなかなか自分が間違っているとは認めない。

今日の第一朗読を思い出してください。神様がわたしたちに授けてくださったさまざまな掟は結局、愛の掟。「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。隣人を愛するということはどういうことであるかと考えてみますと、人間は不完全ですから、自分の気に入らないようなことがあっても、それをいちいちとがめだてしたり、腹をたてたり、不機嫌になったりはしないで、優しく受け入れ包むということが大切であると思います。さらに、人間は過ちをおかすものでありますから、いちいち人の過ちを数え立てて、その人を退けたりすることは神の御心ではないでしょう。
「いつくしみの特別聖年」という年がありました。神はいつくしみ深い方です。私たちが互いに裁き合い、非難し合っていてはいつも険悪な雰囲気の中で、少しも安らぎを得ることはできない。わたしたちは互いに赦し合わなければならない者なのです。だからといって、人が過ちを犯したときに見逃したり、何もしないということは、これもまた間違いでありまして、本当にその人を愛することにはならない。これは皆さんが家庭で、職場で、日々経験している難しい問題ではないでしょうか。

今日の第一朗読でエゼキエル預言者が言っていますが、悪いことをしている人がいて、その人にあなたのしていることはよくないことだ、だから改めなさい、神の道に立ち返りなさいと教えなければいけない。教えても言うことを聞かずにその人が滅びてしまった場合に、教えたあなたは責任を問われない。しかし、もし、それはいけないよと教えなかったならば、あなたも責任を問われるのだよと言っているようであります。わたしたちは人の間違いを正し、そして導き助けなければならない。しかし、どういうようにしたらよいのか、いつどういうような言葉でどういう順番で人に忠告したらよいのか、これはわたしたちの人生の中でたいへん難しく、また重大な課題であると思います。
イエスは「人を裁いてはいけない」とも言っているんですね。裁いてはならないです。しかし、人の間違いを正さなければならないです。本当に間違っているかどうか、誰が決めるのか。明白な事実の間違いというのは問題ありませんね。あるいは本人が勘違いしている場合は問題ありません。しかし、人間というものは自分勝手なもので、言ってるその人、例えばわたくしの場合、わたくしの気に障る、わたしにとって不快なことをしている人に対してわたしが注意する時に、その人のためというよりも自分のうっぷん晴らしのためにしてしまうこともある。ですから、親が子供を注意する時も、落ち着いて、平和な気持ちになって、諄々と子どもに諭さなければならない。腹立ちまぎれに、その腹が立っているのはその子供のことが原因ではなくて、他のことで腹が立っていても、自分のストレスを解消するために、その怒りを子どもに向けてしまうというようなことがありはしないか、という反省も必要なのであります。

さて今日は堅信式が行われる。堅信は聖霊の賜物を受けて、イエス・キリストの弟子となり、教会の使命を力強く行うことができる人にされる大切な秘跡であります。知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、この7つの賜物を受けるのであります。本当に人を導く時には、その人のことを更に良く知り、そのこと、非難すべきことが本当であるかどうか。そして、どうしてその人がそういうふうになっているのか、ということをよく見極めながら、適切な言葉で、適切な機会に優しくたしなめなければならない。最初は二人きりで、そして、さらに必要ならば一人二人一緒に連れて行きなさい。それでも聞き入れてくれないならば初めて公の問題にしなさい。そういう順番があるわけであります。ここにいらっしゃる皆さんはそれぞれ誰か他の人に注意をしたり、あるいは咎めたりするべき機会があるにちがいない。その時によく祈り、自分の心を静かに振り返り、平和のうちに、その人のためになる注意を、ふさわしい時、ふさわしいタイミングで行うようにいたしましょう。

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