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2017.7.1 (土)  「宣教・福音化年」水戸教会・挨拶


7月1日(土) 水戸教会

 おはようございます。今日、水戸の教会に参りまして、お話をするためではなくて、お話を伺うために来たのだと思います。確か、昨年の聖香油のミサは、こちら水戸教会で献げられました。その時以来かもしれませんが、今梅雨の季節。でも、今日から7月に入りました。今日はですね、ゆっくり、ゆったりと過ごして、信仰について考え、味わうようにしたいと思います。自分の体験を、自分の言葉で、そして自分の生活で表し、伝えることができるよう願い、聖霊の助けを祈りたいと思います。

 フランシスコ教皇は、いつくしみの特別聖年を宣言しましたね。もう終わりましたんですけども。世界中で神様のいつくしみということを、深く味わう機会となりました。その時に、教皇様から世界中の信者に渡された、いつくしみの特別聖年のお祈りというのがありました。少し長いお祈りでしたけれども、このお祈りの内容を今回思い出します。神のいつくしみを祈る祈りでした。そして、その祈りは神様のいつくしみに出会った、触れた人が自分の体験を人々に伝えることによって、教会が生まれ、そして発展してきたと。そして、わたしたちにはそれぞれ自分の信仰、神様に出会った時の喜び、あるいは平安、平和でしょうかね、それを次の世代の人々に伝えましょうという内容であったと思います。

 6月29日は聖ペトロ・聖パウロの祭日でありました。この二人によって、わたしたちの教会は成立し、発展してきたと言ってもいいのではないでしょうか。この二人はそれぞれイエス・キリストに出会い、深い影響を受け、人間が変えられて、まったく新しい人になって、その体験をそれぞれ述べ伝えたわけですね。時々も思いますんですけれども、難しい勉強をし、難しい言葉で人々に話しても、よく伝わらない。よく響かない。何しろ話してる人が、その難しい言葉を本当にわかっていて、さらに体験していて、自分のわかっていること、体験していることをお話しているならばいいんですけれども、借り物というか、知識を授業のようにお話しても、聞くほうにはあまりわからない。伝わらない。そういうように思います。

そういう経験をわたくしがしてきて、なにしろ自分がよくわかっていない、本当にこれだと思っていないのに話をするというのは、難しいというか、はっきり言うとつらいことですね。わたしはこう信じます。そして、そういうように心がけて生きています。それが人々には、力を持って伝わるのではないかなと思うわけですね。

 それでこのペトロですが、イエスから声を掛けられて、漁師だったけれども、イエスに従った。そして、十二人の使徒の頭に使命された。イエスの御受難の時に、わたしは何があってもあなたに従います、命も惜しみませんと大きなことを言ったけれども、ご承知のように臆病風に吹かれて、わたしはあの人を知らないと三回も言ってしまった。誰でも知っている話ですが、こういう自分たちの宗教の最初の中心人物の失敗談を、わたしたちの教会は聖書として、福音書の中で伝えている。詳しく伝えている。そういう宗教であるわけですよね。人間というのは、あまり知られたくない過去というのがある場合にはそれを隠したい、隠蔽したいという気持ちが働きますし、団体についても同じことなんですかね。そう言えば、あちこちで、言った、言わないの、隠蔽という言葉もよく聞きますけれども。その点、わたしたちの教会はこういうみっともないことがあったということを包み隠さずに伝えている。そこがいいと思いますね。

 パウロ。ご存知のように、熱心なファリサイ派の、今日でいえばユダヤ教徒だったが、キリスト教徒に対する激しい迫害も行い、敵意に燃えて、キリスト教徒を縛り上げて、連行するというような、そういう働きをした人が、どういうわけか復活したイエスに出会って、今度はイエスを救い主としてのべ伝え、そして最後に殉教するという生涯を送った。そして、何が起こったのか。このパウロの回心というのは、何であったのか。彼は、自分の体験、使徒言行録で確か3度も述べているのですが、“サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか、”という声が天からした。そして、強い光が射してきて、目が見えなくなった。そういう体験を述べているわけですね。

ペトロ、パウロ、その他の人たち。このイエスに出会った人たちですね。そして、この地上のイエス、ナザレのイエスという人に出会った人々の話は福音書にあります。復活したイエスに出会った人の話、その筆頭がパウロ。生前のイエスを知らない。でも、イエスにわたしは出会ったと、イエスから召し出されたと、パウロは強く主張している。最初はなかなか、当時のキリスト教徒は彼を認めなかった。なにしろ自分たちをひどい目に合わせていた人なんですから。だんだん信用を得るようになったのでしょうけれども。そのパウロの手紙が聖書になっているわけですね。最初から聖書として作られたわけではなくて、次第にパウロの残した手紙が聖典となって、そして重要な信仰の証言になったわけでありました。わたしが生きているのは、わたしというよりもわたしの中におられるキリストであると。キリストは生きているのだと。自分ではなくて、キリストであると。そういうことを本当にはっきりと、自信を持って言っている。そのような信仰宣言を、わたしたちはすることができますでしょうかね。できると思う。この、やはり、自分が救われる、変えられる、そういう体験ですよね。

 宣教・福音化年の今をわたしたちは過ごしておりますが、そのお祈りを作ろうということになって。それで先ほど唱えましたね。それでこのお祈りの特色は何であるかというと、色々なお祈りがあるけれども、このお祈りは喜びという言葉、幸せという言葉、勇気という言葉が目立つんですね。特に、喜び、喜び、喜びというのは、何回出てくるんですかね。わたしたちは、この信仰の喜びに召され、与えられ、それをわかち合い、人々に伝えていく。伝えるんですけど、伝わる、本当に信仰を生きていれば伝わっていくと思う。難しい言葉を使わなくても、本当に主イエス・キリストに出会い、イエス・キリストからいただいた信仰、これを人々に伝えていきたい。これを全員で、それをやりたい。もちろん、司祭、修道者、奉献生活者と最近言いますが、特別な役割を持っています。そのために何年もかかって、準備をしている。勉強もする。修練もする。研修も受けている。それは当然なんですけれども、全ての信徒は、その人の置かれている場所で、自分の生活の中で、あるいはお仕事をしながら、あの人はやっぱりこういう点で違うねと、みんなから思っていただけるような、そういう人になることができると思うのであります。

 わたしたち司教、司祭は皆さんがそうできるように、励ます役割だと思うんですね。本間神父様がおっしゃったように、勇気を出していただけるように。わたしたちは神様に祈り、神様の言われることを聞くというこのお祈りとともに、神様は我々に何を言っているのかということを分かち合う。自分で勝手に思い込んで、だんだんずれていってしまう恐れもありますが、みんなで一緒に、神様は、イエズス様は、聖書は、わたしたちに何を語っているのかなと。地上のイエスはおりませんが、イエスは教会を創った。聖霊を派遣した。そして、世の終わりまであなたがたと一緒にいるよと言ってくださった。どこに、どういうふうにいるのかな。わたしたちのあいだに、おられる。あなたの中に。イエスは生きている。パウロのように大見得を切るように言う勇気はないかもしれないが、わたしたちの中にイエスはおられる、生きている。さらに、人々の中にイエスはおられる。どういうふうにおられるのかなというようなことを、分かち合うことは素晴らしいのではないかなと思います。

 今、この日本の社会で、人々はどういうような状況にあるだろうか。大変気になる色々な問題があります。まず、わたしたちはやはり平和ということを大事にしたい。平和を実現する人は幸いと、イエスは言われました。平和を創り出すために努力する人は幸い。平和というのは、ほっておいて実現することではなくて、神様の恵みを受けて、そして人と人が努力して、一つひとつ丁寧に築いていく努力の連続だと思います。もう一つ大切なことは、いのちということで、わたしたちのいのち。かけがえのないいのち。自分にとってかけがえがないなら、誰にとってもかけがえがないわけであります。そのいのちは、色々なことで脅かされている。日本は、日本の政治は色々な問題があるかもしれないけれども、やはり日本の政治は良い政治が行われていると、わたしは思う。思うけれども、現実に一人ひとりの人が大切にされ、生きがいを持って生きているかというと、そこに大きな問題がある。

 最近同じことばかり言って恐縮なんですけども、日本という国は自殺する人が多い国なんですね。何年か前、ドイツのケルンに行きました時に、色々お話をする機会がありました。ドイツ語はできませんので、通訳していただいたんですけれども、その時に、その頃、特に自殺する人が多かった。確か、14年間続けて自殺する人が三万人という。それがずっと続いたんですね。それで4、5年前かな。三万人を切ったという、二万人台になったということなんですけれども。どうして自分で自分のいのちを縮めなければならないのか。仕事がないとか、病気であるとか、色んなことがあるんですけど、一つは誰かと一緒に生きて、お互いに喜びを分かち合うという体験が非常に乏しい。人は、明日起きたらこれをする、これを家族ためにしなきゃいけないとか、したいとか、単純なことで、我々は毎日ができているわけですよね。皆さん、今日お集りになった。良いことがあると思って来られた。実際あるんですけれども。そういう、人と人との交わりから生まれる喜び、支え、励まし、そういうものがほとんどない人がいる。特に若い人が、自死を遂げていると。15歳から34歳の人々の死因の第一位が自殺であると。交通事故じゃない。交通事故はどんどん減ってきた。病気じゃない。だいたいの人は病気で亡くなりますけれども、癌とか。だけど、この15から34という年齢ですね。人生のもっとも元気な、育ち盛り、若い、そういう時期に自分で自分のいのちを縮める必要はないわけだけど、そうせざるを得ないような苦しい状況がある。そういう人たちに、わたしたちは助けになると思うんですね。そういう人に、別に難しい公教要理をしなくてもいいですね。その人たちのことを大切に思い、そして寄り添う。必要ならば、わたしはこういうことを信じてると話す。そういう用意があります、ということが大切ではないか。そのためには、日頃からの心がけ、あるいはわたしたちの間で信仰の分かち合いをするということが大切ではないでしょうか。

 さいたま教区宣教・福音化年であります。宣教というのは、教えをのべ伝えるということです。福音化年という言葉はちょっと堅いんですけれども、このイエス・キリストの福音を言葉でのべるとともに、生活、行動で実行することによって、人々がイエス・キリストと出会う。そして、ひいては、わたしたちの住んでるこの世界が、よりよい世界、より一人ひとりが大切にされる、かけがえのない存在であるということがお互いにもっとよく見える、わかるような、そういう社会になるように努める、という意味が入っていると思います。わたくしはキリスト教信者が増えることは大変嬉しいことですけれども、もっと嬉しいことは、わたしたちの間で信仰を分かち合い、まわりの人々にその喜びを、その生きるための力を表し、伝えていくことができれば、それにまさる喜びはない、そう思うのであります。

 茨城県では、そのための機会をこれから設ける。今日は5人の方のお話が伺えるということでありますので、わたくしも大変楽しみにしております。わたしたちは自分の信仰、いただいた信仰を他の人々と分かち合うということが非常に大切なことであり、なかなかそうする機会がないのですけれども、教会の奉仕者はそういう機会を作り、そして励まし合って、勇気を持って、自分の信仰を表すようにする。これが教会が発展していくために、一番大切なことではないだろうかと思うのであります。どうぞ、今日はよろしくお願いいたします。

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