カトリックさいたま教区
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2017.6.9 (金)  教区司祭6月命日記念ミサ


浦和教会

第一朗読 トビト11.5-17
福音朗読 マルコ12.35-37

本日、わたくし共はパウロ篠原恒一神父様の命日記念ミサをお献げし、神父様の永遠の安息のために祈ります。神父様は1995年6月に亡くなられました。この出来事は浦和司教であったわたくしの思い出の中にある出来事なのであります。91年に浦和司教になりましたので、95年は、わたくしが隣の司教館に住んで、浦和の司教を務めていた時であります。6月23日という日は、当時の定例司教総会の開催中の日でありました。その会議には島本要大司教さんも、もちろん出席しておられました。ご一緒に、篠原神父様のためにお祈りを捧げたのであります。

6月4日が今年の聖霊降臨の日でありました。聖霊降臨は弟子たちの上に聖霊がくだったことを記念する日であり、そして、私たちの教会の誕生を祝う日であります。次の主日、明後日ですね。6月11日は三位一体の主日となります。

今日の福音はどういうことを言っているかといいますと、メシアということについて述べています。メシアはギリシャ語ではキリストとなり、「油を注がれた者」という意味でありまして、わたしたちも洗礼を受けた時、キリスト者とされた、油を注がれた者とされたのでありました。マルコの福音12章では「メシアはダビデの子である」という表現について、論争しているようであります。ダビデの子という言葉は何を意味しているのか?この文脈からいうとダビデの子孫であり、そしてダビデのもとにある人、ダビデの使命を受け継ぐ人という意味でしょうか?イエスの言葉から判断すると、イエスがいうメシアは、ダビデの子という言葉では表現しつくせない重要な使命をもった者である、という意味が伺えわれる、そのような雰囲気が今日の福音から伝わってきます。

さて、明後日の福音を少し、あらかじめ予習しましょう。ヨハネの福音の3章。非常に有名な箇所です。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
メシアはキリスト。そして、イエスは、ご自身を、その来るべきメシアと考えたのでしょうが、それは、人々に永遠の命を与える使命を持った救い主であるという自覚を持っていたのであります。4つの福音書の中でヨハネの福音書は成立が一番遅い。マタイ、マルコ、ルカが出て、その後、教会の中でいろいろな論争がある中、ヨハネの福音が書かれました。そしてイエス・キリストは神の御独り子であり、救い主であり、そして神からの神である。後に、ニカイアの公会議で、325年、イエスは「神からの神、光からの神、まことの神からのまことの神」、「父である神と同一、本質」、日本語の信仰宣言では「父と一体」と訳されておりますが、神と本性を同じくする者。神と等しい者であるという信仰が確立されました。そのイエス・キリストを信じる者は永遠の命に入るということをわたしたちは信じ、その信仰を人々に伝えるべく召されているのであります。

最近、ずっと考えていることは、私たちの信仰は要約するとこのようになる、イエス・キリストを信じる者は永遠の命に入るということを伝えることでありますが、更にそれは、どういう意味なのか、どうしてそうなのかということを説明できますでしょうか。信仰宣言というのは、最終的には説明することではなくて、信じてもらうしかないわけでありますが、信じてもらえるように、信じやすいように言葉と行いをもって、人々に提示することが私たち教会の使命であります。先ほど、ここに到着しまして、郵便物1週間分、2週間分たまりますが、その郵便物を点検しましたが、中央協議会から届いている統計があったんですね。信者数などを伝える統計でありますが、さいたま教区は増えているのですが、日本全体としてはむしろ少しずつ減っているようでありますね。なかなか増えない。どうしてだろうか、そういうことを考え、数が増えればよいというわけではないという議論もありますが、しかし、やはり、多くの人が福音を信じてもらえるように努めなければならないと思うのであります。

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