カトリックさいたま教区
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2017.2.5 (日)  深谷教会ミサ  14時


第一朗読 イザヤ58.7-10
第二朗読 一コリント2.1-5
福音朗読 マタイ5.13-16

今日は、年間第五主日であります。先週の第4主日からマタイの福音の山上の説教が読まれています。先週は、幸いであるという教え、八か条が告げられました。「自分の貧しさを知る人は幸いである」から始まる昔の言葉で言えば真福八端の教えであります。
 「幸いです」という言葉は「祝福されています」と、言い換えることもできます。どうしてそういう人たちが幸いなのか、少し受け止めにくいかもしれません。幸いであると言われた人たちは、どんな人であったでしょうか?イエスの周りに集まってきた人たちは、どんな人であったでしょうか。世間的に見て決して幸いな人ではなかったと思われます。 
病気の人、貧しい人、あるいは罪人とされ、後ろ指をさされている、そういう人でありました。どうしてそういう人が幸いなのだろうか。私たちの信じる主イエスの教えはそういう人々こそ幸いなのであるという教えですから。どうしてそうなのかなということをこの機会にもう一回深く考えてみる必要がありはしないかと思います。

今日は、その幸い八か条の次の箇所ですね。「あなたがは、地の塩である。あなたがたは世の光である。」と、主イエスは言われました。ここで注意したいことは、「あなたがたは地の塩になりなさい。あなたがたは世の光になりなさい。」と言われたのではなくて、そこにいるあなたがたは、そのままで、すでに地の塩です。世の光です。と言われたのですね。常識的には理解は難しい。そこに集まっている人は疲れ果てた人、病を負っている人です。そうですね。イエスは言われました。「だれでも重荷を負うものは私のところに来なさい。休ませてあげよう。」元気いっぱいで健康でお金もあるし仕事もうまくいっている。そういう人が幸せと思われるかもしれないが、そういう人に向かって、イエスは、「あなたがたはいいね。幸せだね。」と、言ったのではありません。力を落としている人、心が折れている人、嫌なことばかりあって、もう生きるのが嫌になった人、などの人に向かって、「あなたがたは幸せだ。」と。冗談じゃないよ。どこが幸せだ。という風に思いますか。それともそうおっしゃったのだから信じますと答えますか。

「地の塩、世の光」も同じではないでしょうか。もうこれ以上がんばれと言われてもがんばれないよ。だめだめ、もっとしっかりやりなさい。みんなからこの人たちは素晴らしい人たちだと言ってもらえるようにがんばりなさい。そういう意味もあるかもしれませんがが、文字通り読んでみるとあなたがたは、「もうすでに地の塩です。世の光です。」と、言っているようであります。
どうして、そういうことが言えるのでしょうか。私たちは程度の差こそあれ、貧しい者、弱い者、自分の力で何もできないと言ってもよいかもしれません。決して立派な人間ではありません。「こうしたいと思ってもなかなかできない。こうすべきだと教えられてもそうできない。ああ今日もしてはいけないことをしてしまった。しなければならないことをしなかった。」そう思うかもしれません。そんな人を神様は、もうお前なんか知らない。というのではなくて、そうであっても私はあなたと一緒にいますよ。そう言ってくださいます。

 昨年は、「いつくしみの特別聖年」という特別な恵みの時でありました。神はいつくしみ深い方であります。自分が弱い者、貧しい者、罪深い者であると思う人のそばに神はいてくださいます。そういう人を神は受け入れ、励まし、導いてくださいます。おそらくあなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。というのは私たちの価値からでてくるものではありません。全然だめなのですからね。このだめな人間がそのままで「地の塩世の光」であるわけがありません。では、どうしてそうなのでしょうか?そういう私たちと一緒に主キリストがいてくださいます。聖霊の恵みを注いでくださいます。
そして、私たちを通して神の力、神の光が人々の前に出てくるからであると思います。

 使徒パウロの今日の朗読、コリントの教会への手紙の中で言っています。パウロは、本当に強い人であったようですね。あのような宣教の旅行をし、数々の困難に出合いました。もうくずれて力を落とし、望みをなくしてもおかしくないような困難な目に合いました。しかし、彼は自分の使命を全うした人です。今日の手紙によれば「大変衰えた状態にあり、そして、不安と恐れを抱いていた。」と書いてあります。でも、彼は確信していました。神の力、キリストの光は、この弱い私を通して現れるのであるとそのように確信していたのであります。あなたがたは「地の塩、世の光」それは、この私たちがどんなに弱いもろい存在であっても、あるいはもろい弱い存在だからこそ、神は、キリストは、私たちと共にいてくださり、私たちを通して働いてくださる。この信仰が私たちの慰めであり、救いであると思います。

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