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2017.12.3 (日) 埼玉南ブロック合同堅信式
待降節第一主日、草加教会 第一朗読 イザヤの預言(イザヤ63・16a-17、19b、64・2b-7) 第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリ1・3-9) 福音朗読 マルコによる福音(マルコ13・33-37) 今日は、待降節の第一主日でございます。待降節とは、主イエス・キリストのご誕生を迎える準備をするときです。読まれました福音で、繰り返し、目を覚ましていなさいと主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。 それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。わたしたちは、いつであるかはわかりませんが、必ず、死という時、この世を去る時を迎えるのであります。そのために良い準備をしなければならないです。その時に、わたしたちは神様とお会いする、主イエス・キリストとお会いする時でありますので、ちゃんとお会いできるように準備しなければならない。誰かとお会いするときには、色々な準備が必要です。誰かがいらっしゃる時には、お会いする場所を綺麗に掃除したり、色々な余計なものは片づけたりするわけですね。それと同じように、わたしたちも色々な準備をしなければならない。人は死ぬとき、何も持っていくことはできない。全部置いていかなければならない。そして、一番大切なことは心の準備ということですよね。色々大事なことをするときに、わたしたちは準備をします。試験を受ける時には、合格するように準備しています。ですから、神様にお会いするときには、神様と平和のうちにお会いできるように心の準備をいたしましょう。 今日、心の準備ということで一つ、皆様に話したいことがあります。今年は2017年ですね。ちょうど500年前に起こった出来事が、非常に大切な出来事であります。それは、マルチン・ルーテルという人が始めた宗教改革という出来事ですね。カトリック教会の問題を強く感じた、一人の非常に真面目な修道司祭、ルーテルという人が当時のカトリック教会に向かって抗議を始めたという出来事から、宗教改革が始まりました。500年経って、今どういうような関係になっているかというと、ご存知のように、わたしたちの教会は第二バチカン公会議をいたしました。1965年に終了したわけですけれども、その際、他の教会の人たちとよく話し合いをしましょうということになりました。よく話を聴こうじゃないか、ということで、対話が始まりまいた。そして、耳をかたむけてみると、基本的な信仰の理解については違いはない、基本的には同じである、ということが分かったので、仲直りしましょう、ということになりました。なお、さらに、色々な違いについて、話し合いをしております。先日の11月23日、長崎の浦上教会、長崎教区の司教座聖堂で、宗教改革500年を祝う行事が行われました。 さて、このルーテルという人がわたしたちに伝えている大切なことは何であるか、ということを、今日、ひと言申し上げたいと思います。ドイツ人です。大変真面目な人であった。修道者になった。毎日定期的にお祈りをし、勉強し、それから色々な苦行に励んでいた。どんなに頑張っても、神様が自分をゆるし、そして受け入れてくださっているという確信が得られなかった。自分は罪人だ、とてもゆるされない、という自分を責める気持ちがどうしても彼の心から抜けていかなかったんですね。そして、彼の大切な仕事は、講義、教えることであって、聖書の講義をしていました。ある時に、詩編の31章2編という言葉のところに来たんですね。どういう内容であるかというと、当時彼はラテン語で講義していたそうですが、ラテン語文を直接日本語で言うとこうなるんですね。「主よ、あなたの義によって、わたしを解放してください。」彼はこの神の義という言葉が恐ろしかった。憎んでいたとさえ言っています。神様はご自分の正しさに従って、罪人を罰するんだ、自分は罰せられるんだ、神様は恐ろしい方だ、そういうように彼は思っていた。ですから、この義という言葉に、彼は嫌悪を感じていたそうです。しかし、ある時、一つのひらめきが彼の心に起こったのであります。それはどういうことかというと、神様はご自分の正しさをわたしたちに与えてくださって、わたしたちを神様の御心にかなう者と認めてくれる、そういう神様であるという意味であると。そういうように、彼は悟るようになったのであります。 今日の第二朗読で、パウロが次のように言っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と。ですから、神様がわたしたちに恵みをくださる。その恵みを認めて、受け取りさえすれば、わたしたちは救われるんだと。自分で自分を救うことはできません。わたしたちは、罪深いものです。神様のお望みに叶う、完全な人間というのはこの世の中に一人もいない。しかし、神様はそのようなわたしたちを憐れんで、いつくしみ深く、わたしたちに恵みをくださる。そして、その恵みは主イエス・キリストによって、与えられました。詩編というのは旧約聖書ですから、イエス・キリストが現れる前のことですけれども、すでに詩編の中で、イエス・キリストが来られることを預言しているのであるとさえルーテルは考えたのであります。 聖書の翻訳というのは、難しい仕事であって、専門家でないわたしたちには分からないことが多いんですけれども、勉強した人から学べば、色んなことが分かります。今日では、この聖書の研究も大変進歩していまして、こういうように訳されているんですね。 「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。」と日本語で訳されている。神の義という言葉は、実は、もともとのヘブライ語を調べると、神の助け、神の贖い、神の恵みという意味が込められているのであるということが分かりました。 さて、今日堅信を受けられる皆さんは、神様がイエス・キリストをわたしたちにお遣わしになって、イエス・キリストがわたしたちの救い、贖いとなってくださったという信仰を新たにし、そして、人々に、その信仰をのべ伝えなければなりません。わたしたちの代わりに、主イエス・キリストが、わたしたちの贖いとなってくださいました。そのために人間となってくださったのであります。イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主である。わたしたちがその信仰を受けて、その信仰を人々に言い表すことによって、わたしたちは神の子キリストとの交わりに招き入れられた者となるのであります。わたしたちにはできないと思わないでください。自分の信仰を、自分の言葉で言い表すようにいたしましょう。そういう機会が必ず与えられると思います。ですから、わたしは何をどういうふうに信じているかなということを、もう一度心の中で確かめるようにしてください。 |
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